【第79回】 岩戸開き

開祖は、「今は丁度二度目の岩戸開きの時、魂を表に魄を裏にふりかえる世界を作ることである。」とつねづね言われていた。

最初の岩戸開きは、古事記にある「天の岩戸開き」である。古事記によると、須佐之男命が田の畦を壊したり、機を織っていた織女に皮を剥ぎ取った馬を投げつけて死なせてしまったりと乱暴を働いたので、それまで我慢をしていた太陽の神である天照大御神が天の岩戸に隠れてしまい、世の中が真っ暗になってしまったとある。

暗闇から光を取り戻すため、古事記では、天児屋根神が太祝詞(フトノリト)を唱え、天照大神の偉大さや美しさを目一杯褒め上げた。天照大御神は、これを聞いて大いに喜んだ。しかし、岩戸から出てきてはもらえなかった。そこで、天宇津女命が舞台の上に躍り出て舞を舞い始め、神懸かり状態になる。神々は大いに笑った。神々の笑いを不審に思われた天照大御神は、岩戸を細めに開く、隠れ待ち構えていた手力男命が岩戸に手を差し入れて戸を開き、同時に、鏡を天照大御神の前に差し出す。この時、すかさず天太玉命が、結界としての注連縄を天照大御神の後方に張った。こうして再び日の神たる天照大御神は岩戸の中に帰ることができず、太陽の光を取り戻したということだ。 

古事記は何かを象徴して書かれたものであるので、その真意はなかなか分からないし、いろいろな解釈ができるようである。

須佐之男命は渡来人とも言われる。須佐之男命が暴れたというのは、それまでのやまと文化にパワーの外来文化が入ってきて、やまとの文化が顧みられなくなってしまったことを象徴しているのではないかと考えられる。

今、日本も変わってしまった。力と金が幅を利かせる物質文明、競争社会、命を粗末に扱い、人の不幸を喜び、自然を疎んずる社会になってしまった。日本人のこころを失った「暗黒の世」になってしまったとも言える。

春日大社の葉室頼昭宮司は、「その神様(須佐之男命)が乱暴したということは、外国から入ってきた文化に若者たちが溺れて、日本の文化を顧みなくなったことを現わしていると私は思っています。それは現代でも同じで、田畑で米を作らずにそれを止めてみたり、日本人の最も大切にしている着物の考え方を壊してしまった。そして日本人の原点たるこころを失ってしまったことを表現しているのだと私は思うのです。(「神道<いのち>を伝える」春秋社)

合気道は、この「暗黒」(魄)によって岩戸に閉じ込められている光明(魂)に出てもらうために、岩戸開きをしなければならないとするものである。そのためには、これまでの魄の文化を魂の世界に振りかえなければならない。これからは人類が培ってきた物質文明の上に魂の文化をもたらし、たましいがモノをリードする世界を作らなければならない。八百万の神々が天の岩戸を開いたときのように、宇宙の偉大な智慧と愛の力(神)を認め、それに感謝し、みんなで智慧を働かせ、自分を顧み、邪念や我欲を断ち、真に強い力で第二の岩戸を開くのである。

合気道の稽古でも、しっかりした体ができたら、それを土台にして、今度は魂(こころ)の修行をしなければならない。合気道の修行は、自分が岩戸の前にあって、その岩戸を開くべくやらなければならない。開祖がよく道場で神楽舞を舞っていたのは、岩戸の前で岩戸開きをするためのものだったと思われる。晩年の開祖の演武も、すべて神楽舞で岩戸開きの舞だったのであろう。