【第789回】 気を出し、気をつかう稽古

思想と技の第789回「気と魂魄の違いと関係」で気について書いたが、ここでは引き続き、その気をどのように出し、どのように練っていくか、そのためどのような稽古をすればいいのかを研究してみたいと思う。

まず、合気道の技の錬磨の上で“気”は非常に大事であり、知らなければならないものであるが、非常に掴みどころがない不可解なものである。多くの合気道家はそれに悩んでいるか、理解や身につけることを諦めていると見る。しかし、気の理解なく合気道を精進し、真の合気道(武産合気)に精進するのは不可能であるはずなので、何としても気を理解し、身に付けなければならない。

前置きはこれぐらいにし、本題に入る。
気を理解するためには、まず気を感じることであると思う。気が分からない内は、何が気なのか、気がどのように働いているかなど分からないわけだから、気を感じる事も難しいはずである。しかし、少しではあるが、気を感じ、気の働きが分かってくると、それほど難しいものではない事が分かってくるものだ。
また、意識しなくとも既に気をつかっていたことも分かってくるのである。例えば、二教裏で技を掛ける際も受ける際も、腕力でやるより、気でやる方が強力な力が出て、効くということをやっていたのだ。特に、イクムスビのクーで息を引いて技を掛けたり、また、受けを取ると、相手の腕力が相当強くとも、崩したり、耐えたり出来るのである。これが気であったのである。

気を出し、気をつかう稽古をどうすればいいかというと、次のようなものがあるだろう。これは自分の稽古からのものであるから、人が違えば違う方法もあるはずである。
気を出すため、つかうためには、腕力をつかわないことであるが、技をつかう手に大きな力を出すためには、手・腕がしっかりしていなければならない。折れたり、曲がったりしない手である。
しかし、手が幾らしっかりしていて頑丈でも、手・腕だけの力は高が知れる。やはり、腰腹の力には敵わない。そのために、手先・腕と腰腹を結び、腰腹でその頑丈な手・腕をつかうことになる。これで相当な力が出ることになる。
多くの稽古人はこの状態の稽古を長期にわたってやることになる。
しかしある時期になると、力に限界を感じ、また肩を痛めるようになる。手・腕の力がまともに肩にくるからである。ひどい場合は、四十肩のように肩が痛くて上がらないようになり、稽古は続けられなくなるのではないかと思うようになる。

この痛みを取るためにいろいろ試行錯誤するうちに、肩を十字につかえばいいという事が分かってくる。手・腕を縦に振り上げたら、今度は肩(胸)を横に開き、そしてまた縦にあげるのである。縦→横→縦の十字である。これで肩が貫けるので痛むことはなくなる。尚、肩が貫けなければ気を感じ、つかう事は難しいと思う。
そしてこの手の十字から、体は十字につかわなければならない事がわかる。特に、腹の十字は大事である。これに左右の足の陰陽と合わせ、陰陽十字の法則が分かる。この十字も気の為に必須であると覚える。

体が陰陽十字に動けるようになると、息(呼吸)で体をつかい、技をつかうようになる。イクムスビの息づかいで技を掛けるのである。イーと息を吐き、クーで息を引き、ムーで息を吐いて技と体を収めるのである。
イクムスビで技をつかえば、それまでのように相手の力とぶつかり合うこともなくなり、技を上手く収めるようになる。
更に、このイクムスビで技と体をつかって行くと筋肉や骨の肉体で力を出したり受けたりしなくとも、その代りに他の力が働いてくれることが分かってくるようになる。その肉体的な頑張り・力みではなく、もっと自由で強力なエネルギーが手・腕に満ちるから、それを技につかうようになるのである。それこそ“気”であったわけである。従って、今度はイーで気を手先から出し、クーで手・腕に気を出し、拡げ、満たし、ムーで気を出して収めることになる。
この息づかい(呼吸)は阿吽の呼吸に変わっていくことになる。阿吽の呼吸は更に気と関係が深くなっていくようであるので、これからの研究と云う事になる。

しかし、気を感じ、気を身に付ける容易な方法がある。それは合気道の基本的な稽古である受け身である。受け身を取ることによって気を感じ、気を身に付けていくのである。
過って、大先生の受けを取った弟子は、みんな強くなった。直弟子の先生方を見ればわかる。ある先輩が、後輩と稽古をしていたが、或る時、その後輩が大先生の外稽古で一か月ほど道場を離れた。道場に戻って来た時は、先輩はその後輩にぜんぜん歯が立たないぐらいに強くなっていたと不思議がっていた。これは大先生の受け身を取って、力まずに気で受けを取り、気で働く体をつくったということになるだろう。

もう一つ、気を出し、気をつかう稽古がある。それはフトマニ古事記の稽古、布斗麻邇御霊の稽古である。の七つの御霊の営みに習って気を練るのである。これらの御霊の運化は息(呼吸)でやるが、この息は気でないと出来ないのである。
故に、この布斗麻邇御霊の稽古が出来るようになれば、気を相当会得できることになるものと期待しているところである。