【第789回】 言葉と体

フトマニ古事記の次元の錬磨に入って稽古をしていくと、言葉の果たす役割の重要性を感じるようになる。アイウエオなどの言葉なくして言霊は生まれないし、技も産み出せないのである。勿論、以前から言葉は無意識に、また意識してつかっていたし、その重要性も感じていた。例えば、剣を振ったり、打ち合わせる時は、エイと打ち、ヤーと受け止め、トーと離れるなどの掛け声は自然に出していた。言葉とは、音声や文字などにより表され、特定の意味を伝達する手段であるから、この場合の言葉は音声で表した、有声の言葉と云う事になる。また、無声のイクムスビで体をつかい、技を掛けるようにもしていた。

そして今分かったことは、これらの言葉をつかうには意味があり、そして役割があるということである。剣を振る場合のエイ、ヤー、トーでもこの言葉はその動作に合致しており、他の言葉には変える事は出来ないと思う。
イクムス(ビ)にしても、イーだから息が十分に吐け、手先が十分に伸び(絞る)るし、クーで息が引けると同時に相手の接点部位を引っ掛けたり、くっ付ける事が出来、ウーで息を吐き技を収めることになるわけである。やはり、他の言葉には代えがたいと思う。これが昔から続く先人の知恵ということだと感服する。

言葉には出せるだけの掛け声があるが、言葉はただ声を出しても働いてくれない。言葉で大事な事は、言霊が生まれ、技が生まれるようにすることである。そのためには、天地の呼吸に合わせ、声と心と拍子を一致させなければならないという。(合気神髄P.62)
それでは、「天地の呼吸に合わせ、声と心と拍子を一致させる」にはどうすればいいかということになる。それは、布斗麻邇御霊の働きに合わせて、息と声をつかい技を産み出すことである。「アーオーウーエーイー」の言葉(無声)との息づかいで宇宙のひびきの言霊を起こし、宇宙と一体化するわけである。言葉と息が合しないと決して上手くいかない。特に、「アーオーウーエーイー」の言葉を正確につかわなければ技も生まれない。
これを大先生は、「ゆえに、オなら「オ」、ウなら「ウ」と発声する折には、体内の血は躍動し、必ずその活力となり、姿は描かれ、同時に光となり、熱となり、生技発声となります。」(合気神髄P.77)と教えておられる。