【第787回】 気の妙用

フトマニ古事記の次元に入っていくと、不思議とこれまで解らなかった大先生の教えが急に多少解るようになってきたのである。例えば、これまでチンプンカンプンだった『合気神髄』の教えが解明できる糸筋が見えてきたのである。

最近のその一つの文章を記す。見出しは『「気の妙用」によって身心を統一』である。
「気の妙用は、呼吸を微妙に変化さす生親(いくおや)である。これが武(愛)の本源である。気の妙用によって、身心を統一して、合気道を行じると、呼吸の微妙な変化は、これによって得られ、業が自由自在にでる。この呼吸の変化は、宇宙に気結び、生結び、そして緒結びされる。また、呼吸の微妙な変化が五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる。変化とは違う。こうなって、はじめて五体の五臓六腑は、熱と光と力が生じ結ばれ、己れの心の意のままになり、宇宙と一体となりやすくなるのである。この呼吸の微妙な変化を感得することによって各自に合気道の業が生ずるのである。呼吸の微妙な変化は真空の気に波動を生じさせる。この波動は極烈であるか、遅鈍であるかということで、宇宙に種々なる成因をつくる。この波動の極烈と遅鈍によって、心身の凝結が知られる。」(合気神髄 P.85)

先ず、「気の妙用は、呼吸を微妙に変化さす生親(いくおや)である。これが武(愛)の本源である。気の妙用によって、身心を統一して、合気道を行じると、呼吸の微妙な変化は、これによって得られ、業が自由自在にでる。」である。
これまでよく分からなかった「気の妙用」が身心を統一するということである。気で身心を統一し、呼吸を微妙に変化させることによって技(業)が自由に出ると云われるのである。気で身心を統一するとは、異質の心と身体を気によって合するということである。これまでは息(呼吸)によって、心身を統一してきたが、息に代えて気をつかうと云う事である。

また、呼吸を微妙に変化させるとは、気によって布斗麻邇御霊の呼吸を、吐きながら引いたり、吐きながら吐いたり、また、引きながら吐いたり、引きながら引くなどと微妙な呼吸の変化で技を出すということである。この呼吸は微妙であるが、この呼吸は気でやるということであり、これで気というものが実感出来るように思う。

次の「この呼吸の変化は、宇宙に気結び、生結び、そして緒結びされる。また、呼吸の微妙な変化が五体に深く喰い込み、喰い入ることによって、五体はその働きを、活発にし、千変万化神変の働きを示すことができる。変化とは違う。こうなって、はじめて五体の五臓六腑は、熱と光と力が生じ結ばれ、己れの心の意のままになり、宇宙と一体となりやすくなるのである。」である。
この布斗麻邇御霊の呼吸によって宇宙と結び、そしてまた五体に食い込み、食い入り、五体の働きを活発にし、そして五体は心の意のままになるので、宇宙と一体となりやすくなるということである。尚、千変万化神変の働きを示すことができるが、変化とは違う。とは、五体の働きが活発に千変万化神変に働いてもそれは布斗麻邇御霊の営みの中での変化であった、その法則を破って別なものに変わることではないということだと思う。

更に、「この呼吸の微妙な変化を感得することによって各自に合気道の業が生ずるのである。呼吸の微妙な変化は真空の気に波動を生じさせる。この波動は極烈であるか、遅鈍であるかということで、宇宙に種々なる成因をつくる。この波動の極烈と遅鈍によって、心身の凝結が知られる。」である。
気によって呼吸が○、□、━、|、十字と繊細な変化を感じる事ができれば、波動(言霊)が生じ、そしてそれは技になっているということである。

ここまでは実感出来るが、この後はまだよく解らないのでこれからの研究となる。

尚、今になると分かるが、『合気神髄』だけを何十篇、何百篇読んでもこれは理解出来なかったと確信する。何篇も読むことに加え、布斗麻邇御霊の営みに身心を合するフトマニ古事記の修行に入る必要があると思うからである。
また、己一人だけではそれは出来ないことも分かった。何ものかが協力し、支援してくれていることを実感する。これを大先生は、「私の合気道は、八百万の神がことごとく協力して和合していくみちなのです。」(合気神髄 P.50)と云われているのだと感じる。
合気の修行は、肉体的と精神的、体と頭、動く事と考える事、相対稽古と読書、動と静、顕と幽、人と神等々の相対するものに協力してもらうものであるといえよう。つまり、その片方だけでは駄目だという事である。