【第785回】 ゆっくりやる

合気道は武道だから技は速くつかえなければならない。電光石火とか勝速日という。本部で教えておられた有川定輝先生も、「合気道の特色はシンプルということ。一呼吸で終わりますから。一動作を一呼吸でやるんです。大先生が言っているようにアウンの呼吸だからね。」(『合気道マガジン』)と言われておられた。
入門した若い頃は、技も知らないし、合気の体も出来ていなかったが、先輩や強い同輩などと対等に稽古をするための自分の武器は速さだけだった。時計が止まっていると思ったほどに速く技を掛け、受けを取っていた。

稽古のスピードは相当ゆっくりとなった。年を取って来た事もあると思うが、どうもそれだけではないようである。ゆっくりやるのは、どうも年のせいや横着だけではないようなのである。その証拠に、速く技をつかおうとすれば、いつでも相当速くできるし、若い相手でも息が上がってしまうようになるからである。

ゆっくりした技づかい体づかいをするには意味があり、その必要性があると確信したのである。フトマニ古事記の稽古に入ってからはその必要性を切に感じるようになった。布斗麻邇御霊の営みに合わせて技をつかわなければならないが、はじめからこれを速い動きでやるのは不可能だ。
まずは、未体験、新たな稽古はゆっくりとやるべきだし、ゆっくりしか出来ないものである。これを速くやれば、得るべきことは得られず稽古にならない。

ゆっくりやるのは理に合うようにやるためである。手足や腰が陰陽十字につかわれているか、息が布斗麻邇御霊の営みの水火でつかわれているかを会得したり、確認するためである。
正確に理合いで出来るようになれば速くも出来るはずだから、速くやってみる。速くやって出来なければどこかおかしいわけだから、また、ゆっくりやってそれを見つけ、修正する。そしてまた、速くやってみると実行、反省・、修正、実行の繰り返しが稽古と言う事になる。

ゆっくりでも正確に理合いにあっていれば、電光石火とか勝速日の速さで動けるはずである。理を身に付けるためにもゆっくりやる事が必要なのである。
速くやっていたその速さを、ただ減速したのがゆっくりやるということではない。