【第782回】 三位一体の上達

合気道の稽古に通う人は誰でも少しでも上手くなりたい、上達したいと思っているはずである。少しでも上達すれば嬉しく、もっと頑張ろうと思うし、逆に、上達が止まってしまったり、この先に上達の可能性がないと思えば、稽古から撤退ということになる。

はじめの内は誰でも上達していくものである。新しい技を覚え、それまで硬かった体がほぐれ、技と体が頭からの指令なしにつかえるようになり、稽古相手と投げたり投げられたり出来るようになるわけである。
しかし、あるところに来ると上達が止まり、滞ることになる。ここが稽古の一つの節目になる。節目というのは、ここまでは誰もが同じであるということと、そしてここからが更なる上達に進むか、または上達を止めてしまうかが決まる処だからである。
この上達を止めてしまう典型的な稽古は、所謂、自己流で技や体をつかっていくものである。理合いが無いので魄の腕力や体力(勢い)に頼ることになり、技が上手く掛からないのは当然、その内に体を壊すことになるわけである。

この節目から抜け出すのは容易ではない。その理由は、己がその節目にある事が自覚できない事、そしてどうすればその節目から抜け出せばいいのかが分からない事などのためである。
よほど運良く、いい先生にでも教えて貰えればいいが、基本的には自分で見つけていかなければならないことになるはずである。
私の場合は非常に運が良かった。有川定輝先生がそれを示唆して下さっていたからである。先生は細かなことをご説明されなかったが、今思え返せば、先生の一挙手一動にその教えがあったのだと思う。

有川定輝先生の更なる上達のための教えには、やるべき事を地道にしっかりやっていかなければならないということであった。先生はそれが分かり易いようにと、呼吸法を中心にした稽古をされたのだと思う。特に、片手取呼吸法と諸手取呼吸法を重視されていた。そして、呼吸法が出来る程度にしか技をつかえないと云われていた。確かに、諸手を取られて動かせなければ、技などつかえないわけだから、諸手取呼吸法をしっかり稽古しなければならないことになる。難しくなかなか出来ないから研究しなければならなくなる。

先生は、やるべき事をやらなければならないといわれたわけだが、その具体的な説明はなかった。が、それは大先生の教えにあったのである。つまり、有川先生は大先生の教えを勉強して、大先生の言われている、やるべき事をやって行かなければならいと言われたわけである。当時は、それが何か分からなかったが、今、ようやくそれが分かってきたところである。

その教えは、『合気神髄』『武産合気』にある。この教えを稽古していくのがこれからの上達ということになると考える。
しかし、この『合気神髄』『武産合気』は難解である。一度や二度読んでも、頭で理解することも、技に取り入れるのも出来ない難しさである。これを理解し、会得するには、100遍繰り返して読むほかないと思う。昔の人は、これを読書百遍意自ずから通ずといったのだろう。

しかし、『合気神髄』『武産合気』を読んだだけでは、健全な上達はないように思う。この教えは言ってみれば理論であり、頭の仕事である。この頭の仕事を体と一緒にすることによって、更に分かるようになるし、身に付くはずである。
それではどうすれば上達できるようになるのかというと、『合気神髄』『武産合気』を熟読すること、道場稽古の相対稽古でこの教えを試し、反省し、再挑戦し、会得すること、そして更に、稽古相手ではなく、宇宙相手の禊ぎ、の三位一体で上達していくことである。三位一体とは、キリスト教の父(神)と子(キリスト)と聖霊ではなく、三つの別々のものが緊密に結びつくという意味である。『合気神髄』『武産合気』と相対稽古と禊ぎを緊密に結んだ稽古をするということである。
恐らく、この三位一体の稽古こそが、これからの上達に導いてくれるものと考えている。