【第776回】 稽古に来る人はいろいろ

合気道をはじめて60年ほどになる。最近は時として当時を振り返ったり、若い頃を思い出したりする。年のせいなのだろう。
私が入門した頃は大先生もお元気にご指導されていたが、当時はまだみんなが食べることに精いっぱいで、武道の稽古などの余裕はない時期だった。だから道場に通う稽古人は今の様に多くはなかった。しかしこのような状況でも稽古に来ていた人たちは、はっきりとした目的を持っていたように思う。例えば、大先生と接したい(お姿を見たり、お話を聞いたり)とか、戦争から戻って真の生き方をしたいとか、強くなりたいとか、自分を成長させたいとか等である。
各自の目的のために、少しでも上達しようと真剣に稽古をしていた。また、大先生がいつ道場に姿をみせられるかということもあり、稽古は真剣で、緊張した雰囲気が張りつめていた。

当時は誰もが共通して、少しでも技が上手くなり、上達しようということなので、先生も先輩も駄目な事は駄目と注意してくれたり、それをどう直せばいいのかも教えてくれた。我々初心者は先輩に出来ない事や分からない事をよく質問した。
また、以前にも何度か書いているが、私の一教の打ち方と手の受け止め方が悪いと、大先生が、道場中が震撼するような剣幕で叱られた。が、大先生は張本人の私にではなく、道場で一番上位の師範に対して怒られたのである。怒られた師範は何故怒られているのが分からないが、ひたすら恐縮しておられ申し訳なかったと思った。後で分かってくるのだが、これが大先生の素晴らしいところなのである。当時の私はまだ白帯だったこともあり、それが間違っているのかどうかなどわかるはずがない。もしそれが分かっていればやらないはずだし、それが分からなかったからやってしまったわけである。
その間違いをしないようにするためには、それが間違いだという事を知っている者が注意しなければならないことになる。だから、知っているべき師範を叱ったということになるのである。
このような経験から、先輩になった自分は後輩の間違いを注意し、正しいやり方を教えてやろうとしたが、中々上手くいかないことが分かってきた。

その理由は、私の入門当時と今では社会が変わり、人の生き方が変わり、合気道に対する取り組み方や考え方が変わったことにあると思う。
今、道場に来る人はいろいろである。
先ず、子供から高齢者と年齢がまちまち、男と女(過っては、女性の稽古人を数人しか見ていない)、学生や勤め人や定年退職者等といろいろな年齢・性別・立場の人たちである。
次に、稽古の目的がいろいろ違う人たちが来ていることである。例えば、喧嘩争いにやられないためとか、会社や学校での緊張をほぐすためとか、体を適当にほぐすためとか、体を鍛えるとか、また、真の合気道を追求するとかである。

それほど真剣に技を追求しようと思っていない稽古人に難しいことを言ったり、厳しいことをやらせようとしても、相手は受け入れないし、反感を買う事になる。
しかし、本当に合気道を追求しよう、技を磨こうという後輩には、知っている事やできる事を伝えなければならないと思う。この見極めも難しい。
何も言わずにいれば波風は立たないだろうが、悪い事は悪いと注意し、聞かれれば答えて上げ、更に後輩・後進の悪い鏡とならないように注意していくことと思っている。さもないと、大先生に叱られる。