【第775回】 祈りは武の実行

前回にも書いたように、フトマニ古事記によってこれまで分からなかったことや新たに分かることがあるのが嬉しい。やはり大先生が言われているように、フトマニ古事記を研究し、布斗麻邇御霊で息や体や技をつかわなければならないことを実感した次第である。

布斗麻邇御霊で息や体や技をつかっていこうとすると、これまでと違ったつかい方をすることにもなるが、どうしても上手くいかないものが出てくる。
その内一番悩んだのがの息づかいである。この息づかいは○に十字である。○は水で吐く息である。この○だけなら、息を丸く吐けばいいわけだが、この吐く息の中に、引く息の火の━と吐く息の水の|が十字になっているのである。つまり、息を吐きながら、更に息を引き、そして息を吐く息づかいなのである。複雑怪奇な息づかいである。
技をつかう際のこのの息づかいでやってみるのだが、どうしても意識し過ぎて不自然であるし、力が出ない。
いろいろ試行錯誤しながらやっていると大先生の教えを思い出した。それは“祈り”である。
“祈り”とには大いに関係があり、祈りはの息づかいであることが分かった。
具体的に説明すると、人は祈れば必ず息を吐いて声を出す。これが息を吐き続ける○である。そして声を出し続けながら、お腹で息を横━に引いたり、縦|に出したりしている。これが十である。一寸意識すればそれが分かるはずである。

この十字から天之浮橋ができる。これを「祈りは、本当に祈りがもとになり大橋(天之浮橋)となる」「祈りも天之浮橋である。これをもって行うのが合気道であり、ます。この合気の技の生み出しは、悉く天之浮橋がもとになっている」と教えておられる。逆に言うと、祈らなければ天之浮橋が出来ないという事である。

更に大先生は、祈りから武技が生まれると、「祈りも又実在のもとに武技となって生まれるのである。祈りそのものが悉く武術でなければならない。祈りそのものが又、実在にこの世界を淨めねばならない。即ち祈りそのものが武の実行と同じである。・・・信仰の徳がなければ、武産合気は会得出来ないからです」(武産合気 P.81)と云われているのである。

入門した当時に、大先生から祈りは大事だとは云われていたが、それを無視してしまっていた。誠に不謹慎極まりなかったと反省している次第である。この罪滅ぼしに、後輩、後進には祈りの重要性を伝えていきたいと思っているところである。