【第775回】 手は伊邪那美神・伊邪那美神に神習う

合気道の技は手で掛け、手で相手を導くので、手は重要である。故に手を上手くつかえなければいい技は生まれず、相手も倒れてくれない。
しかし、手を上手くつかうのは容易ではない。その理由は、先ず、合気道の手が出来ていなければならない事である。折れ曲がらない手であるが、手の各部位が自在に動く手、しっかりして柔軟な手もつくらなければならない事である。次に、手のつかい方である。自分勝手につかうのではなく、法則に則ってつかう事である。簡単に言えば、伊邪那美神・伊邪那美神に神習ってつかわなければならないのである。

合気道の受け方の主な攻撃法は、手刀で打ってくるものと、手等を掴んでくる法である。他に突いたり、締めたり等々いろいろあるわけだが、この二つの攻撃に対処できれば、同じように出来るはずなので、この打ちと掴みに対する稽古を主体的にすればいいと考えている。

これまでは正面打ち一教などで、相手が倒れればいいと相手が倒れるように技を掛けていたが、これでは駄目だという事に気づいた。稽古の相手も力が付いてくることもあって、ぶつかったり、頑張られたり、返されてしまったりすることがあるようになってきたのである。力不足もあろうが、やり方が何か間違っているはずである。
そこで相手の打ってくる手を迎える己の手の出し方、息づかい、体づかいを研究していたところ、フトマニ古事記の布斗麻邇御霊の教えに出会ったのである。

これまで一番分からなかった事は、息づかいであった。手を上げる際に、息を出してやるのか、息を引き乍らやるのかが分からなかったのである。
大先生は、私が知る限り、具体的な息のつかい方は教えて下さらなかった。が一つだけその具体的な教えがある。
それは、「相手火をもってきたら、水をもって対す。相手を打ちこませると誘ったときは、水が終始自分の肉身を囲んで水とともに動くのである。すなわち相手が打ってくれば、水とともに開くから打ち込まれない。すべて打ち込まれるにも、この真理と合した呼吸で行われなければならない。」(合気神髄 P.98)である。
つまり、相手は火で打ってくるので、こちらは水で対処しなければならないということである。しかしこれだけでは、以前の私のように、何が何だか分からないだろう。これが分かるためにはフトマニ古事記の助けがいることになる。

布斗麻邇御霊の教えの伊邪那岐神と伊邪那美神である。
大先生は、「からだ」は五臓五体といって造り主に神習い、頭の働きは両手にまかす。これが伊邪那岐、伊邪那美の大神様の気を受け、神習うていかなければならない。」(合気神髄P146)と、手は伊邪那岐、伊邪那美の大神様に神習ってつかわれなければならないということである。
 伊邪那岐神の図像はである。○の中に━である。○は水で吐く息である。━は火で引く息である。
伊邪那美神の図像はである。○の中に|である。○は水で吐く息である。|は水で吐く息である。

これで相手が打ってくる手をこちらの手で迎えることになる。
要点は、先ず、水の息を吐くことである。息を吐きながら手を出すことになる。次に息を吐き続けながら、腹中(胞衣)で、━で息を引き、そして|で息を吐くのである。水の中に火を産み、そして水で収めるということである。複雑な息づかいである。
しかし、息を吐きながら、息を引き、そして吐くのはやってできないことはない。お祈りで詔をあげれば、声を出し続けながら、腹の操作で息を━に引き、そして|に吐く事が出来るだろう。大先生が祈りはいいと云われたのはこのことにも関係すると思う。
更に、この伊邪那美神と伊邪那美神の息づかいは阿吽の呼吸でやるのがいいと思うし、阿吽の呼吸でしか出来ないのではないかと思っている。

正面打ち一教で打ってくる手に対し、この伊邪那美神と伊邪那美神の息づかいをつかうわけであるが、掴まれた手で技を掛けるのもこの息づかいでやればいいようだ。