【第77回】 いい高齢者の先生になろう

昔から、どんな親なのか知りたければ子どもを見ろといわれている。親が育てた子どもを見れば、その親の大よそが分かるというわけである。いい先生かどうかは、生徒や弟子を見れば想像がつくし、おそらくは想像通りであろう。

この世のシステムも武道のシステムも、教える人がいて、その教えを継承する人がいるというシステムである。そのシステムで社会が形成され、文明が栄え、継続し、発展してきた。

これまで多くの先生が、その生徒にいろいろなことを教えてきた。武道の世界でも多くの先生方が多くの生徒に武道を教えてこられている。先生は上手くて、強い。それは先生として当然のことであるが、それだけではいい先生とは言えないだろう。先生は生徒に教え、その技を後世に伝えていくことが役割であるわけだから、その技を継承したいい生徒をどのくらい育てたかが大事であろう。その意味で開祖植芝盛平翁はいい先生の代表格であるといえる。

生徒(弟子)を見れば、武道界だけでなく、政界、財界、軍人、宗教界、学者、思想家、皇族、芸能界等々、幅広い一流の人々が生徒になっており、社会で活躍し、合気道の技や思想を継承している。武道界でも多くの素晴らしい、一線級の生徒(師範)を育てたことはいうまでもない。

高齢者とは世間一般では定年を迎える60歳ぐらいを指すようだが、武道の世界では50、60歳はまだ「鼻たれ小僧」で武道のことをまだまだ分かっていないと翁先生はいわれていた。従って武道の世界の高齢者は早くて60歳後半からということになるのではないか。

長年武道をやっていれば、高齢者となるとある程度のことが分かりはじめているので、時として弟子や後輩を教えることになる。その高齢者がいい先生になるかどうかは、自分の会得した技が理にかなっていて、その理合に合った技を弟子や後輩に伝えられるかどうかにかかっている。人はどうしても自分の得意なもの、自分に出来ること、自分にやりやすいことを教える傾向にある。こうなると、先生はできるだろうが弟子にはできないということになり、その技はその先生一代かぎりということになる。これでは弟子は育たないし、技も継承されないのでいい高齢者の先生ではないことになる。そうではなく、自分が教えた技や動きを教えられた弟子や後輩も出来たならば、自分の考えた技、動き、考え方、教え方が独善的なものではなく、理に合ったものということが出来るだろう。

自分だけ出来ても、それは自分しか出来ないものかも知れない。弟子や後輩の生徒も出来るようになるには、理に合ったことを教えなければならないだけでなく、自分自身がよくよく分かり、出来なければならない。いい先生になるのは生徒に教えるよりも、自分自身が深く理解し、体で示せなければならないといことだ。ますます自分を鍛え、修行し、いい先生になり、後輩に合気道の真の遺産を残したいものである。