【第769回】 魂の比礼振りと六根

「魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である。」そして「我々の造化器官は身魂を通じて複雑微妙なる働きを示して武を顕すが、絶えずこの身魂、すなわち六根を清浄することが必要であり、いつでも魂の比礼振りを起こさす状態に自分をおくべきである。」と大先生は教えておられる。
つまり、武を顕し、技を生み出すのは魂の比礼振りであり、そしてこの魂の比礼振りを起こす状態をつくるのが清浄な六根であるということである。
六根とは、六つの器官の眼(げん)・耳(に)・鼻・舌・身(触覚)・意(意識)である。この六根を清浄にしておくのである。穢れを取り除き、穢れのない六根にしておくということである。
このために仏教では六根清浄、合気道では“禊ぎ”となるのである。

六根を清浄にするためにはどうすればいいのかということになる。
簡単に言ってしまえば、六根が喜ぶようにすることだと思う。敏感に感じ、反応するよう禊ぎ、磨くのである。
そのためには六根を清浄にしなければならない。その為にやること、やれることは沢山あるようだ。
例えば、一般的に云われている、目や耳を洗い、口(舌)を漱ぎ、祈りや水を被るなどして身と心を浄めればいい。
更に、目を清浄にする、目を禊ぐために、清く美しいモノを目にし、清く美しいモノを描いたり、つくるように心がけることである。例えば、絵であり、陶芸、美術品、自然(海山川)等である。耳を禊ぐためには、いい音楽を聞いたり、自然の声や子供たちの声を楽しんだり、また、歌ったり、音を奏でたりすればいいだろう。
また、六根の禊ぎに最適なのが祝詞と思うが、祝詞が古代から消えずに残っているのはこの耳や口(舌、喉)の禊ぎという、人としての必要性を無意識にもっている本能にあるからではないかと考える。

「魂の比礼振りを起こすためには六根を清浄にしなければならない」と大先生はいわれているが、大先生は「我々は六根ばかり頼ってはいけない」とも、次の様に言われているのである。「我々は六根ばかり頼ってはいけない。仏教では六根清浄などというが、六根というものは、この顕界において、この明るい世界を眺めるために肉体にそなえたものである。」
つまり、六根は目に見える顕界のために備わったものであるというのである。ということは、目に見えない世界では、六根ではない何かがあるということになる。
それを大先生は「心を磨いて、本当に六根の働きをば融通の変えやすいように、つまりいう魂の道を明らかにしておいたらよい。そうすると六根は光となって、表にあらわれてくる。六根が光を放ってくるというと、やることがみな魂の比礼振りということになってくる。己が物を生みだすようになる。」と言われている。要は、心を磨くことだと教えておられるのである。更なる修業である。

だが、そうだからといって六根は大事ではないと、お先生は言われてはいない。大先生は、「しかし物質の世界をみるにつけても、やはり六根の道をきれいに掃除しておかなければならない。」(合気神髄P.44)と言われているのである。
先ずは、六根を禊し、磨かなければならないのである。魂の比礼振りが生まれるためには必須という事である。