【第767回】 口は災いの元

まともな老人になろうと心がけているつもりだが、なかなか難しい。まだまだだと反省する事が多い。
最近、道場で初心者の若者に注意した処、注意された若者が言い返してきた。通常なら素直に聞いたり、反省したり、感謝したりと、注意を聞くが反抗してきたのである。しかも、若者の反抗は別々に二度もあったのである。
以前にも書いたように、道場での長老になったこともあり、大先生の時代の先輩たちが取るべくやり方をやっているわけである。悪い事は先輩が注意をするということである。やっている本人はそれが悪い事とは気づかないからやっているわけで、それに気づいた者が注意してやるしかないのである。

注意したことは些細なことであり、その内容はここでは重要でないので省くことにする。問題は何故、注意された若者が注意を聞かず、納得しなかったかということである。本人もその事は悪いと思っているはずであるが、注意したこちらが悪いとでもいいたそうに抗弁したことである。

このような争いが起こった場合、悪いのは片方ではなく、両方にあると思っているから、先輩の私にも悪い点があることになる。
そこで自分のどこに問題があったのかを考えてみた。それは合気道流で云えば、魄による注意だったということになる。この魄の力に対して相手は反発してきたということになると思った。こちらは長年稽古をしている高段者であり、若者はまだ数年しか稽古をしておらず、ほとんど何もわからない。だから、俺のいう事を聞くのは当然だろうという、魄による注意だったということである。
合気道は魄の力で技をつかっても限界があるから、魂で技をつかい、相手を導かなければならないと教えている。そして魄の力から脱して魂でやろうとしているわけだが、魄からの脱出は技の稽古だけでなく、稽古以外や日常生活のすべての場面でやらなければならないという事を忘れていた結果だと思った。
もし、本当に相手のことを想い、周りのことを想い、合気道の事を想い、地上天国・宇宙楽園建設の生成化育を思う、愛が十分あったならば、その若者は注意を素直に受け入れたと思う。愛が欠けていたか、不十分だったわけである。まだまだ修行がたりないということである。「口は災いの元」を肝に銘じ、修業していく事にする。

因みに、会社でも学校や社会でも「口は災いの元」を良く効くが、これも地位や権力や立場等の魄の力で言葉を発する事が原因であろう。愛の心の魂で言葉を発するようになれば口は災いをもたらさず、福をもたらすだろうと思う。

しかし、これで分かったことがある。それは、これからも「口は災いの元」のような反省する事がまだまだ起こる事が確かなこと、そしてこれは恐らく、いくら注意しても避けられないはずだということである。これは仕方がないことであり避けられないが、大事なのはその事から学んでいく事だと考える。これが真の反省ということであり、真の老人になる糧であり、要素であると思う。