【第766回】 大先生、有川先生が見ておられる

半世紀以上にわたって合気道を続けている。入門した頃は大先生もご健在だったし、藤平光一先生、斎藤守弘先生、山口清吾先生、有川定輝先生、多田宏先生(ご健在)等々蒼々たる先生方が指導して下さっていた。また、内弟子や先輩方も沢山おられ、教えて頂いたり、注意をされたり、沢山のことを教わった。分からない事や出来ない技を聞くと、実際に技を掛けて教えてくれた。日曜も含めて毎日稽古をしていたので、毎日、何かを身に付けようとしていたし、何か一つは学んだ。

今では、その当時の先生や先輩方はほとんど亡くなってしまった。大先生も、私が渡独した翌年に亡くなられてしまった。
そして自分自身が今度は稽古人達の先輩になってしまっている。最早、過ってのように先生や先輩に、分からない事や出来ない技等聞く事はできない。寂しいかぎりである。
当時は、先輩はこちらをホイホイと投げられるが、こちらが投げたり抑えることは出来ず悔しかった。しかし、先生や先輩に守られているようで気楽であった。

今は過ってのような先輩もいなくなり、技のつかい方や体のつかい方や稽古のやり方で注意を受ける事もなくなって自由に稽古ができる。
しかし、この自由ほど不自由な事はない。何故かといえば、自由には制限という不自由がなければ真の自由にならないと思うからである。制限の不自由がないとしたら自由ではなく、ハチャメチャになってしまう。例えば、私は定年で仕事をしなくてもいいので、会社に行く必要もなく、一日、時間を自由に使えるし、自由に生活できる。何を、何時、どうやってもいいわけである。また、何もやらなくても誰も文句を言わないし、誰にも迷惑はかからない。しかし、もし、起きたり、寝たり、食べたり、食べなかったり適当にやれば、それを自由とは言えない。
私の場合は、幾つかの制限の不自由を設け、それ以外の時間やエネルギーを自由につかうことにしている。例えば、朝は6時に起きる。毎朝、禊をする。三度の食事を摂る。週三日道場に行くである。後は自由に好きなよう、気の向くままにやる。だから、今は最高に自由であると思っている。

合気道の道場でも真の自由な修業をしたいと思っていた。それ故、何か絶対的な制限が必要だった。それは大先生、吉祥丸道主、有川先生の目である。
本部道場には、道場の正面に大先生と吉祥丸道主の肖像写真が掲げられている。それで、いつも道場に入る時と稽古の始まる時は、よろしくお願いしますとご挨拶をする。また、稽古中は、大先生と吉祥丸道主、そして有川先生がご覧になっておられ、それは違う、そんな技をつかうなとか、もっとしっかりやれとか、そんな気を抜いた稽古をするなとお叱りを受けないようにしようと思っている。
若い頃は大先生が突然道場に入って来られてちょっとご指導され出ていかれたが、大先生が道場の前に姿を現されたら、手を打って稽古を止めるように合図するのが役目だったので、大先生を感じる修業は当時やっていた。その感覚で、大先生をお写真から感じで稽古をすることにしている。
大先生、吉祥丸道主、そして有川先生が見ておられると思い、また、お叱りを受けないように、自由に稽古をしていこうと思っている。