【第766回】 の上に収める

「合気道の思想と技の『第766回 布斗麻邇(ふとまに)の御霊』」で書いたように、大先生は、「合気は天の浮橋に立たされて、布斗麻邇(ふとまに)の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならないのであります。」云われている。また、大先生は、「自己の呼吸によって の上に収めるのです。」とも教えて下さっているのである。
上記の論文に書いたように、布斗麻邇の御霊の姿で技を現すようにしていくと自己の呼吸によっての上に技を収めなくてはならないことが分かってくる。

布斗麻邇の御霊のの上に収めるためには、がどのようなものであるか、どうすれば創れるのか、そしてどうつかうのかを研究しなければならない。
まず、である。は丸い玉である。この玉を両手で抱えるようにつかう姿形である。例えば、下記の大先生の写真である。

次にこののつくり方である。一言で云えば、縦と横の十字でつくるのだが、完全な十字からでないとは生み出せない。それを正面打ち一教で説明する。
これまでは、半身で乾(西北)にある腹を北の正面に返し(横の―)、次に手を手先の方に伸ばす(縦の|)。これを横と縦の十字と思っていたが、これでは┛と完全な字ではない。従って、ここでは丸い玉は生まれ出ない。
そこで、手先を伸ばし切った処で、縦に伸ばしてある手先、腕、腰腹を横に拡げる。そして手先と腹と前足と後ろ足の縦の線と腹と両肩と両手の横の線で完全な十字の╋になる。すると他方の手先、腕、腰腹は伸び丸い玉が出てくる。両手で玉を抱くような感じになる。この丸い玉がである。
尚、息はここまで引く息である。

次にである。には詳しく言うと、との二つがある。「布斗麻邇の御霊』の教えである。つまり、の前にがあるということである。これはに潮満の玉と潮干の玉の二つの玉があるのに対応していると思う。、も息を吐いて技と体を四角に収めるが、これがの潮満の玉からの潮干の玉を、先ずは(筑紫島)、そして(大八島国)に収めるのである。は潮干の玉の干している腹でその潮干の玉を落とし、そして引き続き、潮満の玉の満ちる腹でその玉を収め、そして天と地と結び付けて収めるのがであると考える。