【第765回】 感受性が豊かに

以前は年を取って高齢者になれば、肉体的、精神的のすべてに於いて退化していくのだろうと思っていた。しかし、高齢者、後期高齢者になると多くのものが確かに退化しているが、若い時より進化したり、また、若い頃にはなかった新たなものが出て来て働いてくれるものもあるようである。そして最近実感するのは、真の合気道を会得するのは、若い内は難しく、ある程度の年を取らなければならないということである。何故ならば、真の合気道では宇宙との一体化が目標であるから、宇宙、自然、自己の心と結ばなければならないからである。そしてこれらと結ぶためには感受性が豊かでなければならないし、心と体が敏感でなければならない。
感受性が豊かで、心と体は敏感であるためには、宇宙、自然、自己の心を感じ、対話が出来なければならないと思う。若い時は、このような余裕もないし興味もないものである。どうしても相対稽古や稽古仲間を意識して、彼らに負けないようとか、何とか極めてやろう投げてやろうと思うものである。若い頃は、物質文明の競争社会にあるので、他者と比べて強いとか上手いとか、上手くなった等と他者を意識してしまう。
高齢者になってくると、物質文明の力でやっても若者には勝てない。勿論、力が弱い若者には勝てる。そうすると弱い相手とだけ稽古をするようになってしまう。

高齢者になっての最初の利点は、力で稽古をしては駄目だという事に気がつくことである。そして力に頼らずに相手を制し導くにはどうすればいいのかを考えることになるはずである。これは若い時には無いことである。
そこで合気道の研究が始まる。『合気神髄』『武産合気』を読んだり、大先生のビデオを見たりするわけである。そうすると、合気道の技には法則があり、その法則に則って技と体をつかえばいい事がわかるわけである。例えば、陰陽十字である。この法則に則った技をつかう事によって、若者の腕力や体力の魄の力を制し、導けるのである。

次に、息(呼吸)で技と体をつかうのである。先ずはイクムスビの息づかいで技と体をつかう。そして天の呼吸、地の呼吸に合わせて技と体をつかえば大きな腕力以上の力が出てくるようになるのである。若い内は魄に頼ることもあって、息を吐いて技を極めよう、投げようとする。それが出来なくなってくる高齢者になるとイクムスビがつかえるようになるようだ。


この次は気で技と体をつかう事である。気は十字から出るので、息と体をしっかり十字につかい気を出し、その気で技と体をつかうのである。ここからは、これまでの相手の体や腕力を対象にしての技づかいといっていいだろうが、ここからは相手の体や力ではなく、相手の気に気で技を掛ける事になる別次元の稽古となる。この気の感覚は、忙しい若者には難しいようだ。年を取って沈着冷静の高齢者にならないと難しいかもしれない。

さて、最新の稽古である。布斗麻邇の御霊の姿を技で現す稽古である。詳しくは、「合気道の思想と技 第766回と第767回」で書く。大先生は「布斗麻邇(ふとまに)の御霊、この姿を現すのであります。これをことごとく技にあらわさなければならない」と言われているし、また、「古事記の営みの実行で神習っていかなければならない」と教えておられるのである。尚、国学者の山口志道(1765−1843)は「布斗麻邇の御霊」の図像をつかって「古事記」の神代巻の解釈を展開し、後に出口王三郎によって大本教のシンボルとなったという。
この布斗麻邇の御霊の姿を技で現す稽古では、から大宇宙を感じ、から天地を感じ、から十字からつくり出される玉を感じなければならない。よほど感受性を豊かにしておかなければ感じることは難しいと思う。また、忙しい技づかいの若者には非常に難しいと思う。

年を取ってくると、興味のないことや無駄なことにエネルギーを割けなくなる。魄の力が減少し、魂の力(心)が働くようになる。他人や物などの見えるモノよりも自分の心、気持ち、感覚、内面の動きや働きに興味がある。また、宇宙との結び、そして対話をするようになる。合気道の稽古でも、宇宙、自分の内心との対話で技と体をつかうようになる。
力は減少するが、理合いと異質の力がそれをカバーしたり、力を超越する。
年を取る事に悲観する必要はない。若い頃には無かった力が出てくる。
例えば、豊かな感受性である。