【第762回】 感動と歌

真の大人の高齢者になりたいと思い、何をどうすればいいのかを考えている。80歳の傘寿からは鼻たれを脱して一人前の大人になることである。真の大人になり、そして真の合気道の道を修行したいと願っている。
真の大人の高齢者のための要因・要素は沢山あるはずだが、本人がそのレベルにないので何が必要要素なのかなど分からない。しかし、想像がつくものはある。理想的な“老人“をイメージすればいい。健康で体が動く。死がその内に来る事を自覚しながら毎日を楽しんでいる。人の話をよく聞き、必要に応じて話をする。美しいモノやコトに感動する。人や社会や人類の幸せを望み、それに己も少しでも加担しようとしている等。

人は年を取っていくと概して、上記の老人のイメージとは逆になっていく傾向にあるようだ。特に、無感動になっていくようである。美味しいモノを食べても、美しいモノを見ても、素晴らしい音楽を聞いても、目を輝かせたり、涙を流すような感動がなくなるようである。感動しないで、表情や態度を変えないのがいいと思っているようである。忍者や政治家や勝負師のようである。

感動するためには、感受性がなければならない。見たり、聞いたり、味わったりすることを素直に感じ取る事であろう。これはある程度若い内から習慣づけておいた方がいいだろう。いいと云われている有名な絵を観たり、音楽を聞いたり、料理を食べたりするのである。更にいいのは、自分で絵を描いたり、作曲したり歌詞を書いたり、料理をつくったりすればいいだろう。

自分を見てみると、お蔭様で枯れ木のような、無感動な老人ではないようで安心している。それよりも若い頃より感動的になっているといっているようだ。美しいモノ、素晴らしいモノに触れると感動し、涙が出るのである。映画館ではよく涙を流しているし、テレビのドラマを見たり、本を読んでも涙を流したり、流さなかったりして感動している。草花や月や野山を見ても感動するようになってきた。感動している証拠に、例えば歌をつくってきているのである。数年前から歌をつくっているが、当時は何故、歌などつくるのかわからなかったが、今では、感動の証しで、それが歌になったということが分かったわけである。つくった歌の数は相当あるようだが、その中のいくつかを出してみる。尚、本来は格調高い歌を詠いたいのだが、どうしても川柳調、都々逸調になってしまう。これは人間性で、これからも変わらないと思っている。

<季節の移り変わり>

<妻を亡くして詠む> <高尾山で詠む> <高齢者と老人ボケ> <稽古> <世相> このように物事に感動し、歌でも作っていけばいいし、できる人は絵を描けばいいだろう。
こんな歌でも感動したから出てきたわけで、感動しなければ出て来ない。万葉集でも古今和歌集でも感動をしたからこそ歌になったということも分かってくる。これからも歌がでるように感動し、一人前の老人になっていきたいと思っている。