【第760回】 真の合気道から真の高齢者

あと半年で傘寿となる。傘寿になったら真の大人になるようにしたいと思っている。真の高齢者である。これまでは、所謂、鼻ったれ小僧であったし、それでいいと思っていたが、そろそろ大人にならなければならないという事である。
何故、そう思うようになったかというと、年を取ってくると、近い内にお迎えが来る事を感じるようになり、それまでやるべき事をやっておかなければならないと思うようになったからである。
更にもう一つ、合気道である。合気道はやはりこれまで鼻ったれ小僧の稽古をしていたが、そろそろ大人の合気道にしていかなければならないと思ったことである。真の合気道をやるということである。真の合気道を精進するためには、それをやる本人が真の大人でなければならないはずである。

真の大人、真の高齢者とはどのような者か、どうすればそうなれるのか等を教えてくれる人も学校などもない。しかし、有難いことに、合気道にはその教えがある。合気道の教えに従えば、真の大人にもなれる可能性があるということである。つまり、真の合気の道を精進していくことによって、真の大人になっていけるということである。

合気道でも若い、鼻ったれ小僧の時期は、魄の稽古をし、相手に負けまい、勝とう、何とか相手を倒そう極めよう等と稽古をしていた。また、日常生活に於いても、物質文明を謳歌し、見えるモノに目や心を奪われたり、誘惑されていたものである。

しかし、高齢になっても、合気道の稽古で魄の稽古をしていると、これまでのような結果が段々と出なくなってくるものである。己の体力、気力が減退する一方、周りの若い稽古相手に力がついてくるため、これまでの力のバランスが崩れたり、逆転するためである。そして年を取ってくると、残念ながらそれを感じなくなってくるようなのである。故に、そのまま魄の稽古を続けていれば、争いを招き、そして早期引退することになるわけである。

合気道では、例えば、魄の稽古から魂の学びに変えなければならないと教えている。魂は難しいから、魂を心、精神に換えればいいだろう。魄の体(からだ、体力)を土台として、その上に魂(心、精神)を置き、その魂で己の体、そして稽古の相手を導くのである。これがこれまでの魄の合気道から魂の学びの真の合気道にかわったということである。

真の大人も同じように、体や経済という土台の上に、心と精神を載せ、心や精神が己の体や経済の物理を上手くつかうようにしなければならないことになる。
今の世は、物理が精神に比べて強力なため物質文明の問題や戦争や争いが止まないので、物理と精神を平行に精神で物理を使うようにしなければならないのである。その為には、「自分の岩戸を開いて、霊と体とを平行にしてゆかなければならない。物理と精神が平行せねばこの世はよくならない」(武産合気P.101)と合気道では教えているのである。

真の大人の高齢者になるためには、先ずは岩戸開きをして。精神が物理と平行になるよう、そして精神で物理を使うようにすることのようだ。これまで目で見えるモノ、手で触れられるモノを優先してきたが、真の高齢者では、目で見えないモノ、心を大事にすることであろう。己の心、他人の心、万有万物の心、宇宙の心などである。
先ずはこれで真の高齢者になるように頑張ってみることにする。