【第758回】 楽しくいく

年を取って来て自由になると物事が良く見えるようになってくる。自分の事、そして周りの事などである。自分が見えるようになってくると、残された人生をどのようにやっていきたいのかが分かってくる。そして、それが価値判断の基準になり、価値あり、価値なし、必要なモノ、必要ないモノ等を容易に判断することが出来るようになる。働いていた若い頃と違い、価値基準がひとつになった事、他人や社会の目を意識しなくてもよくなったことによると思う。

残された人生をどのように生きたいのかは最重要であるから、若い頃にはないような真剣さになる。何せ、残すところ数年しかないだろうと思うからである。
このために二つの事を大事にしたいと思っている。一つは、やるならば真剣にやる事である。合気道の稽古でも、これまで以上に真剣にやろうと思っている。それが最後の稽古であるかも知れないので、悔いがないような稽古であるようにすることである。
二つ目は、楽しくやっていく事。自分がやっていくことは、自分の価値基準に合ったものであり、自分自身がやろうと決めたものなのだから楽しいはずである。例えば、合気道の稽古は、真剣にやりながら楽しみたいと思っている。

この気持ちと目で周りを見ると、多くの人が楽しまずに生きているように見える。勿論、自分自身も同じだったわけである。例えば、合気道の稽古を長年続けてくると多くの顔が暗くなってくるのである。合気道を楽しんでいないということである。自分が好きでやっていることを楽しめないのは残念であり、何とか楽しむよう、明るく目が輝くようにならなければならないと思う。合気道の稽古は本来楽しいはずである。入門した頃は誰もが楽しくやっており、目を輝かせていたはずである。昔から、常に初心に帰れといわれているが、このことにも当てはまるだろう。

また、街に出ると多くの人を目にするが、生きることを楽しんでいないと思える人を多く見掛ける。高齢者だけでなく成人の大人にも結構見受けられる。目に精気がなく、暗い雰囲気を漂わせている。折角、この世に生を受けたのだから、楽しくいけばいいが、いろいろの事情で楽しめないのだろう。
それに引きかえ、子供たちは楽しくやっているようだ。特に、親と一緒にいる小さな子供たちは楽しくてしょうがないと言わんばかりに、親の周りを目を輝かせ、声を上げて飛び跳ねている。大人たちもこれほど極端でなくとも楽しくやっていきたいものである。折角生まれてきたのだからお互い楽しくやりたいものである。

しかし、楽しめない本人はどうしようもないのだろう。ではどうするかということである。そこで思ったことは、まず、自分が楽しむことである。合気道でも、自分が合気道を楽しんでいる姿を示し、日常生活での生きていく事の楽しさを示せればいいのではないかと考えている。自分が楽しまなければ、他人を楽しませたり、喜ばせることなど出来ないからである。
まずは、自分自身が楽しくやっていくことにする。