【第758回】 手は刀としてつかう

合気道は技を練って精進していく。精進とは正しく進歩上達するということのはずであるから、稽古・修業を重ねていくことによって上達しなければならないことになる。技が上達するということでもある。
技が上達する、技を精進するためにはやるべき事が沢山あり、そのやるべき事を一つ一つ見つけ、そして身に付けていかなければならない。

やるべきことは、はじめは大ざっぱなものであるようだが、稽古が進むにつれて繊細なモノに変わってくるようだ。例えば、稽古を始めた頃は、手は折れたり曲がらない事、相手に押さえつけられないようにしっかりした手であること等であるが、それが、手は陰陽十字につかわなければならないとか、手も体も息でつかわなければならない等と変わってくる。
そして、手のつかい方は、稽古が進むに従って更に繊細になる。今回は、手は刀のようにつかわなければならないということを実感したので、それを書くことにする。

これまで手は気と力で満たし、折れ曲がらず、相手の力に負けないようにつかってきた。そのために手先と腰腹を結び、腰腹で手をつかってきた。また、それを息でつかってきた。これである程度の技はつかえ、大概の相手を導くことはできるようになる。
しかし、これではまだまだ大ざっぱな手のつかい方である事に気がついたのである。

気がついたことは、手は刀としてつかわなければならないということである。手を出すことから、掴ませた手で相手を捌いたり制したり極めるのは刀(剣)の動きなのである。常に己の手を刀とし、刃筋を立てて相手を制しなければならないということである。大げさに言えば、刀を持って技を掛けているということである。片手取り呼吸法でも、正面打ち一教でもすべての技(形)で手が刀になるのである。手の尺骨部が刃となり、手刀部は切っ先となる。
合気道の技(形)を、手を刀としてつかうと、合気道の動きは剣道から来ているという事がよく分かる。過って、ある剣道家が合気道を見て、剣道の動きと同じであると言ったそうだが、正しくこの理由によるだろう。

しかし、手を刀としてつかうのは簡単ではない。それはやってみればわかるだろう。合気道の技と体がつかえなければならないことに加え、剣(刀)もある程度つかえなければならないからである。
更に、もう一つの理由かある。それは「第681回 手の親指の神秘的な働き」で書いた、親指のつかい方である。ここで書いたように、親指を支点にして手の平を返さなければならないのである。何故、親指を動かさずに支点とするのかというと、これによって刃筋が立ち、刃筋が通るようになるからである。もし、親指を動かしてしまうと峰(手の橈骨)の方に力が集まり、刃筋が通らず、力が出ず技にならないのである。諸手取呼吸法や坐技呼吸法、正面打ち一教でそれはよく分かるはずである。もっと分かりやすいのは、二教裏と交差取り二教である。親指を支点とし、刃筋を立て、刃筋を通して極めるのである。

手は刃筋を立てた刀としてつかっていかなければならないということである。