【第755回】 高齢者は骨で歩き、若者は筋肉で歩く

今年の夏は猛暑のせいか、年のせいか道場稽古は大変苦労した。これまでも夏の稽古は、息が乱れ、酸欠で手足がこわばったり、気分が悪くなったことがあったが、今年は一時間の相対稽古が続けられるのかどうか心配になるような状況が何度かあって最悪だった。
これまでにない暑さと年によるものであることは間違いない。猛暑は現実であり、避けることは出来ないから受け入れるしかない。敢えて言えば、猛暑はわれわれ人類が犯している環境破壊からの温暖化によるものだと思うから、自分たちにも責任があるわけである。
次の問題は年である。年をとれば体力が無くなってくるから稽古がきつくなるのは仕方がない。これは事実である。しかし、この“年”は猛暑と違う点がある。猛暑はただ受け入れなければならないが、年は多少の制御が出来るということである。

年には一般的な外的な年と個別的な内的な年があると考える。外的な年とは、戸籍や身分証明書などに記載する年である。この年があるから社会は混乱しないで動いているわけだから、これは国や学校などの社会では必要である。
一方、個別的な内的な年とは、外的な年のようにきっかりと定まった年ではなく、個人々々異なる年である。お若いですね〜の年である。但し、この内的な年は、外的な年と表裏一体になっているわけだから、異なるものの限界はある。例えば、どんなに内的な年が幼児のように若いといっても、幼児のように若くはなれない。

前々段に年は多少制御出来ると書いた。実は猛暑の終わりごろになって年を一寸制御することが出来るようになり、猛暑での稽古が格段に楽になったのである。若い稽古になったわけである。それは外的な年から来る体の衰えを、若者時代の体のつかい方にもどすことによって解消したのである。
それは足の筋肉で体と技をつかうようにすることである。とりわけ、足のももをつかうのである。息に合わせて、この筋肉を締めたり伸ばしたりして動くのである。

これまではどうしていたかと振り返ってみると、いうならば筋肉の代わりに骨で地に着き、動いていたのである。体に芯をつくり、力を出すために骨や関節にたよって体をつかい、技をつかっていたのである。勿論、合気道の体をつくるためには必要な過程であるわけだが、今回の猛暑は、更に骨を脱却して先に進まなければならないことを教えてくれたわけである。
因みに、街を歩く高齢者の歩き方を見てみるといい。彼ら、彼女らの多くは骨で歩いているように見えるはずである。それに比べて若者や幼児などは筋肉で歩いているとわかるはずである。

足の筋肉で歩いたり、技をかけると、何故、疲れないのか、元気になるのかというと、足のももの筋肉をつかうと、この筋肉がポンプとなるので、息と気が体中に流れ、満ちるから、元気になり疲れないと実感するのである。これまでの骨でやっていたのとは全然違う感覚である。
合気道の稽古人は勿論だが、一般の高齢者も骨ではなく、筋肉で歩くようにすると内的な年も変わっていくはずである。
勿論、筋肉で歩くためには筋肉をつけなければならない。

今年の猛暑は大変だったが、猛暑のお蔭でこれが分かったわけだから、今年の猛暑に感謝である。