【第754回】 日常生活から離れる

合気道は非常に難しいものであると思う。何故難しいかというと、その一つは、合気道の稽古には容易に入って行けることであり、そして合気道とはこんなものかと思ってしまうことである。基本の形を覚え、力がつき、稽古相手を投げたり抑えることが出来るようになると、合気道は分かったと思ってしまうのである。そして多くの稽古人はこの段階で終わってしまうようである。

二つ目は、目に見える稽古の上に目に見えない次元の稽古をしなければならないことである。今の人は、目に見えるモノしか信じないし、重視しない傾向にある。しかし、その目に見えない次元の稽古こそ真の合気道であるようなのである。勿論、目に見える魄の稽古は大事であるが、それは次の魂の技をつかうための土台なのである。多くの稽古人は魄の技づかいの段階止まり、魂の次元の稽古には入れないでいるようだ。

三つ目は、合気道の技をつかうための体や息づかいは日常生活のもとと相反することが有り、頭を柔らかくして切り替えなければならないことである。

この他にもいろいろあるだろうが、ここではこの三つを上げることにし、そして今回は、この三つ目の日常生活とは相反する合気道の考え方や体づかい、息づかいなどが合気道を難しくしているということを書いてみることにする。

まず、私自身が、合気道のこのやり方は日常生活のものとは正反対だと思った最初の衝撃は“息づかい”である。
日常の生活や運動で、大きな力を出す時は息を吐くが、合気道では息を吸うことである。真逆である。だから、これを知らなければ、合気道の技をつかう際、日常の息を吐いて力を出そうとするから、大きな力が出ないし、相手の力とぶつかってしまうことになるのである。
合気道では吐く息は“水”で“火”を鎮め、引く息は“火”で大きいエネルギーがあるとされるのである。
因みに、合気道では息を吸うとは云わず、息を引くと云う。息を引くとは、息や気(宇宙エネルギー)を体中に取り込むことで、喉や胸や腹などの一部に空気を入れる“吸う”とは質と量ともに大いに異なると感得する。

次に、合気道は相手を倒すことではないということである。どんな武道やスポーツも相手に技を掛けるのは、相手を投げたり抑えるためである。相手が投げられ、抑えられればその技が効いたことになるし、掛けた方は上手いということになる。
しかし、合気道は相手を投げたり抑えて倒すことが目的ではないのである。合気道は倒すのではなく、相手が倒れるようにするのである。技のプロセスと内容がよければ相手は自ら倒れるのである。技を相手にどのように掛けるかのプロセスが大事なのである。
この為には修練が必要である。宇宙の条理・法則に則って体と心と息をつかうようにしなければならないからである。

次に、合気道はつくり出すものではないということである。日常一般的には、まだないモノを作りだすことは褒められる事だし、人の本能でもあるだろう。
しかし、合気道では技を練って精進していくが、“技”はつくるものではなく、見つけて、会得していくものなのである。合気道の技は宇宙の営みを形にしたものであり、宇宙の条理・法則であるから、それを変えたり乱すことは真の技ではないことになる。合気道の技に発明はない。発明したとしたら、それは宇宙の営みに叛くことになるから、体を痛めることになる。長年合気道の稽古をしていて体を痛め、ついには合気道から引退する人がいるのはこの理由によるところが多いと見る。

合気道に発明はないが発見はあるし、発見し続けることが不可欠である。宇宙には宇宙規模の条理、法則、理合いがあり、われわれ稽古人達の発見を待っている。幾ら発見しても発見しつくせるものではない。一人や一代で発見し尽くせるものではないから、合気道家が協力し合い、次の世代、そして更に次の世代と発見し続けていかなければならない。

このように合気道は日常生活とは別の次元にあるわけだから、合気道を精進するためには日常生活から離れなければならない。しかし、合気道に日常生活を取り入れることは問題があるが、日常生活に合気道を取り入れることは何も問題がないし、それどころか日常生活がよりよくなるはずである。
これからも日常生活との矛盾や真逆が稽古で見つかって行くと思うが、合気道で得たモノを日常生活に取り入れていきたいと思っている。また、それを社会が取り入れるようになればいいと思っている。