【第753回】 魄でない力を生むために

合気道の基本的な修業は技を練っていくことである。初めは体力や腕力をつかい技と体を練っていく。魄力でやるということである。しかし、この魄力では技が上手く掛からないようになってくることが段々分かってくるはずである。稽古の相手に力があったり、頑張ったりすれば技は掛からなくなったり争いになるわけである。つまり、己も相手も魄力に頼っている同次元にあるために当然そうなるわけである。合気道を創られた大先生は、それがよく分かっておられ、次の様に諭されておられる。
「物の技は力少なし、武の魂魄阿吽をもって自己の妙、明らかなる健やかなる力をつくることこそ合気の道である」(合気神髄 P.160)。
魄力に頼った技は力が弱いから、魂魄を合わせ、阿吽の呼吸で力をつくって技をつかっていかなければならないといわれているのである。

この武の力は魄(体、魄力等)を土台にし、その上に魂が来る力であり、また、阿吽の呼吸によってつくられる力という事になる。諸手取呼吸法などはこの力でないと上手くいかないはずである。
また、この力は魂の力ということになる。この魂は己がつくるものでも己がだすモノではなく、つくられるモノであり、出てくるモノなのである。これを大先生は、「(武産合気とは、)自己の魂が、身心によって科学されて出てくるものである」と云われている。

魂が生まれ、魂が出てくるようになるには、やらなければならないことがある。これは以前から書いてきた。例えば、天の浮橋に立たなければならない。天地の呼吸に合わせ息をすること。陰陽十字 等々。
また、「身心によって科学されて出てくる」とあるように、体と心は宇宙の法則・条理・理合いに則ってつかわなければならない。これを科学するといわれていると思う。

魂はまだよく分からないが、魂は気と重なり合う部分があるといわれるから、ここでは魂を気と換えて説明することにする。当然、今のところ魂を気として技をつかっている。
相対で相手に技をつかう場合、力を出す、気を出すのではなく、力と気が自然と出るようにしなければならないと思ってやっている。出てくる力こそ魂であると思うからである。
そして分かった事は、やるべきことをやればそれができるということであり、やるべきことをやらなければ魄の力に頼ってしまうことになるということである。

例えば、諸手取呼吸法である。掴ませた手を上げようとしてもよほどの力が無ければ上がるものではない。何しろ、相手は二本の手でこちらの一本の手を掴んでいるのである。それで今度は腰腹で己の手を上げることになる。腰腹の方が相手の二本の手の力より強いから可能なのである。しかし、相手も腰腹でこちらの一本の手を掴んで来れば、腰腹と腰腹の五分々々となってしまう。
そうなると相手の腰腹の力より強い力をつかわなければならないことになる。それは自分の外の力である。天地の力、宇宙の力である。具体的に云うと、①持たせた手と同じ側の足の足底に息を吐きながら地に体重を落とす。②地から抗力が返ってくるので、その縦の力を今度はふくらはぎ、太もも、体幹と息を引き乍ら横に拡げる。掴ませた手も横に拡げる。体が円になる。
また、掴ませた手は、息を入れながら胸を開き、胸鎖関節と肩鎖関節を伸ばすと、縦の息が横に広がり体が円になるに従って、肩峰下関節と肩甲上腕関節が上がり、手全体が上がってくる。
この力は自分が出している力ではなく、出てくる力である。
③後は更に息を引き乍ら、手と足と腰腹を陰陽十字につかっていけば、相手はついてくるし、自ら倒れてくれる。ここの力も出てくるものである。

先述のように、この出てくる力が魂ではないかと感じている。この力でやるとこれまでの腰腹でやるより大きな力と説得力があるのである。