【第749回】 魄の稽古では行きづまる

以前から不思議に思っていたことがある。それは長年合気道の稽古をしてきた稽古人が、何故、まだ元気なのに年を取ると合気道の稽古から離れていくかということである。足腰が弱くなって受け身も取れなくなるとか、技を掛けるのに体が動かなくなったわけではないのに、稽古を辞めてしまうのである。

この答えが最近分かったように思う。それは魄の力の稽古から抜け出せなかったからである。若い内は魄の力が強く、それを十分つかえ、相手を極めたり投げたり出来るが、年を取ってくると魄の力も弱くなり、それまでのように相手を投げたり抑える事が段々出来なくなってくる。それでも魄の力でやろうとすると、時として相手とぶつかり、争いになったりするようになるわけである。魄の力に頼れなくなるわけだが、その代りのモノがなく、先の稽古に希望や楽しみが無くなり引退となっているように思える。

魄の力で技を掛けると、ぶつかり合い、争いになり、そして稽古に行きづまり、早期引退となるわけである。更に、魄の稽古は他人と比較する相対的な稽古である。自分との戦いである絶対的な稽古とは違う。これが魄の力の稽古の弊害である。この意味でも、大先生は魄の稽古から魂の稽古に振りかえなければならないと云われているのである。勿論、魄の稽古は大事である。魄の稽古をしっかりやっておかなければ、魄の稽古を脱出することはできないからでもあるからである。

魄の力、魄の稽古から脱出するのは容易ではないはずだ。一度身に付けたモノを忘れなければならないし、次の次元に進むためにはそれまでと真逆なことをしなければならないからである。
また、魄の力を脱出する過程があると考える。例えば、○力を込めずに、気持ちを込めてやる。○陰陽十字など法則に則って技と体をつかう。○息で体と技をつかう。イクムスビ、阿吽の呼吸である。○天地の気と息に合わせて体と技をつかう等である。自分で見つけていくほかない。

この魄の力を脱出する過程を踏んでいくと分かってくるわけだが、魄の力とは、息を吐いてつかう力ということになると思う。息を吐きながら出す力だから息詰まるし、行きづまることになる。多くの稽古人は、力を入れずにやれば、この息を吐きながら出す力は魄の力ではないと思っているようだが、力を入れず、やさしくつかっても魄の力なのである。特に、高齢の稽古人はそう想いがちであるようだ。

高齢になったら、またはなる前に、魄の稽古から脱出しないと、稽古に息詰まるはずなので用心々々。