【第749回】 一方で導いておいて一方で和す

合気道は技を練りながら精進していく武道である。相対で相手と技を掛け合い、受けを取り合って技を磨いていくのである。また、合気道の技は手によって掛けられるので手のつかい方が重要になる。大先生は手のつかい方をよくよく考えなければならないと次の様に云われている。
「手、足、腰の心よりの一致は、心身に、最も大切なことである。ことに人を導くにも、また導かれるにも、みな手によってなされるからよくよく考えること。一方で導いておいて一方で和す。これをよく理解するよう努力しなければならない。」(合気神髄P.98)

ここでまず、手をつかう上で最も大切なことは、手、足、腰の心よりの一致が精神的と肉体的に必要であるということである。手と足と腰がしっかりと繋がり、共に一致して働くということである。
次に、相手を導くのも導かれるのも手であるということである。手によって相手を導き、導かれるということである。前項と合わせて考えれば、足腰としっかり結んだ手で相手に技を懸け、相手を導き、そして技を掛けられ、導かれるということになる。ふにゃふにゃした手や足腰と繋がっていない手で技をつかっても、受けを取っても駄目だということになる。
三つ目は、一方で導いておいて、一方で和す手をつかわなければならないということである。
言うなれば、この三つ目が、手をつかう最大のポイントだろう。何故ならば、この三つ目は、前の二つができなければ出来ないということと、そして真の合気道の技づかい、体づかいであろうと考えるからである。

手と足と腰がしっかりと繋がり、共に一致して働くこと、手によって相手を導くことに関しては、すでにある程度研究してきたので、今回は“一方で導いておいて、一方で和す手”を研究してみたいと思う。特に、“一方で和す手”に重点を置くことにする。

まず、人には左右二本の手があることである。一般的には一方の手で相手を導き、他方の手で相手に和すことになるだろう。大先生の入身投げや様々な演武でそれが見られる。
しかし、もう一つある。もう一つは、導いているその手で相手と和してしまうことである。片方の手で相手を導き、そして相手と和してしまうということである。例えば、片手取り呼吸法、諸手取呼吸法などでそれが分かりやすいだろう。

それでは何故、そしてどのようにすれば“一方で導いておいて一方で和す”ことが出来るのかということになる。
まず、相手を導く手は、足と腰と結び、腰、足で手をつかわなければならない。腰、足を陰陽十字につかい、三角体で息と気をつかえば、相手を手で導くことが出来る。これはこれまで研究してきたことである。
次に、導いてから和すことである。正面打ち一教等は、右手で相手を導いたら、左手で相手の肘を抑えるがこれが和すことになると思う。これは一般的な考え方であるが、もう一つ、相手を導く手(相手の打ちを制する手)で和すことも出来る。正面打ち一教でもそれは出来る。有川定輝先生はこの両方をやって見せて下さっていた。和するとは相手と手を通して一体化するということだろう。

それではどうすれば、相手と和することが出来るようになるかというと、一言で云えば、“手の十字づかい”である。
手の十字づかいということは、手を、手先と肩先の方向の縦に息と気を流し、そしてその縦に対して横に息と気を流す(膨らます、充満する)のである。手で打つにも、掴ませた手をつかうにも、手は縦横十字に息と気を目いっぱい出してつかわなければならないことになる。剣を振るのも同じく手も十字につかうといい。

手が十字につかえるようになれば、一方で導いて一方で和すことが出来るようになるはずである。