【第747回】 勝負は最後の最後

合気道の修業は楽しいが大変である。最近、つくづくとそう思う。
合気道は技を錬磨して精進していくわけだが、その技には法則や条理があるので、それを身に付けるためにはよほど注意深く、繊細な稽古をしていかなければならない。また、宇宙の法則を身につけ、宇宙と一体化するわけなので、修業に終わりがないことになる。つまり、今の技はどんなに上手いと思っても不完全で途中の状態という事になる。

スポーツは、その時の今、勝たなければならない。そこで負けてしまえば終わりである。勝つためには身心最高の状態でなければならないので、スポーツは若者主体となるのだろう。
一方、武道の合気道は相対稽古や自主稽古で相手に制せられたとしても、上手く出来なくとも、失敗しても構わない。相手に制せられようが、相手を制しようが、大事なのは何かを会得していくことである。そのような意味では制せられる上手な相手、強い相手と稽古をした方がいい。得るモノが多いからである。

武道はこつこつと地道に焦らずに稽古を積み上げていかなければならない。例え、相手に制せられ、厳しく決められ、投げられても、相手の技を見取り、いいと思うものは取り入れていけばいい。自分を変えていく事である。自分が変わることが上達になるわけである。自分が中心となり、自分がどう変わって行くのかという、所謂、絶対的な変化であり上達ということになろう。因みに、スポーツは他人との比較であるので、相対的な変化・上達と云えよう。

他人に勝つことではなく、自分に勝つことが大事であり、それが何よりの喜びになるわけである。これを合気道では吾勝ということになろう。この喜びは勿論合気道だけのものではない。スポーツでも勉強でも芸術や他の世界、つまりその世界にある人々でも同じなはずである。
武道である合気道は、吾勝を繰り返していくので、吾は日々変わることになる。昨日より今日、今日より明日と変わるから、明日もそして一年後も変わることになるので、どれだけ変わるかが楽しみになる。
ということは、どんどん変わっていき、少しづつ上達していくわけだから、最高の上達の状態になるのは、最後の最後のお迎えが来るときということになる。その途中にある間はまだまだだということである。己自身の心身が、まだまだだぞ、もっともっと頑張れと言ってくる。最後の最後に、参った、よくやったと云ってくれるように修業を続けなければならないことになる。