【第746回】 見えないモノを観る

合気道はますます難しいものだと思うと共に、技は実際どんどん複雑で摩訶不思議になってくる。
入門して数年間たって、それまでやっていた陸上競技やテニスに比べても、合気道はなんて簡単なものなのかと思った。実際、先輩達に合気道を辞めようかと思うと相談したものだ。その時、先輩から、まあ黙って10年やってから決めたらいいだろうとのことだったので、それでは10年は続けようと決心し、そして今日に至ったという次第である。続いたのには、合気道はそんな簡単なものではないことが分かったからである。

合気道を簡単だと思ったのは、それほど多くない基本の技がある程度出来るようになり、受けも取れるようになり、合気道とはこんなものかと思ってしまったわけである。
合気道をこのように見ていたのは大きな間違いだと、今では大反省しているが、周りを見ていると同じような人を沢山見かける。形を覚えれば、合気道を身に付けたと思うことである。

しかしながら、基本の形をしっかり身につけることは大事である。これをしっかりしないと先に進めない。一教、二教、・・・五教、四方投げ、入身投げ、小手返し等を十分に稽古することである。十分にということは、自分が満足するまで、不満が残らないように稽古をするということになろう。
勿論、この段階でどんなにしっかりやったとしても不十分であることが後でわかることになる。
この段階は形を追う稽古である。手足をどう動かすのかとか、目に見える次元の稽古である。所謂、顕界の稽古、魄の稽古である。

目に見える顕界から目では見えない幽界に入って稽古を始めると、目では見えないモノが観えてくるようになる。例えば、阿吽の呼吸や潮の満干による、気と息の流れと体の働き及び相手の体と心の動き等である。
また、相手の不足しているところが見えるので、その場所に技を掛ける事ができるようになる。例えば、手の折れ曲がっている、気が抜けたり止まっている、力んでいる等である。大先生は、これを「相手の不満の場所を見出して、術をかける。この不満を見出すのが合気の道でもある。」と云われているのである。

顕界で物質文明の魄に頼った稽古をしていると、見えないモノが観えない。稽古相手が駆使している技の重要な要因が見えないのである。最近、それをつくづく感じたのは、片手取り呼吸法で、阿吽の呼吸と潮の干満の呼吸で手先、腕、上腕から胸に気と息を集めて手先から胸まで気と力で張りつめるのだが、相手の目には見えないので、この見えないモノに気がつくのは難しいろうと思った。ましてや、周りから見ている人たちにもそれは見えないはずである。

難しいからと言って諦めるわけにもいかないのだから、それでは見えないモノを観るためにはどうすればいいのかという事になる。その方法には次のようなものがあるだろう。

  1. 先ずは、目を凝らし、そして気持ちを集中して他人の技と体づかいを見ることである。所謂、“技を盗む“のである。
  2. 見えないモノが観える人の受けを取ることである。受けを取ってその見えないモノを体で感じるのである。大先生や有川先生に取らせて頂いた受けの感覚が今やっと蘇り、当時は全然見えなかったモノが少しづつ観えてくるようである。
  3. 己の技と体を、大先生やこれはと信じる先生や先輩の技のイメージに合わせ、宇宙の条理・法則に則り、天地の息に合わせてつかっていくと、見えないモノが観えてくる。例えば、手先から胸に流れる気、胸から手先に流れる気と“魂”(と信じる)等
  4. 大先生の『合気神髄』や『武産合気』にある教えを守って技の錬磨をすることである。その教えが見えないモノを観えるように導いてくれるようである。例えば、天の浮橋に立つ、天地の呼吸に合す等である。
見えないモノを観えるようにしなければならないわけだから合気道は難しく、複雑微妙である。やればやるほど見えないモノが深く潜っているようであり、しかもその深く潜っている見えないモノがより重要になっていくようである。 しかし、そのまだ見えないモノがいつか観えるようになるはずだと思うと楽しみである。