これまで多くの偉人や人類に功績があった人の事を聞くが、一つの共通点があると思う。それは死を意識したためにいい仕事が出來たのではないかということであり、そしてもしかしたら、死を意識しなければ本当のいい仕事は出来ないのではないかということである。
例えば、インド建国の父、マハトマ・ガンディーであるが、彼は「明日死ぬと思って生きなさい。永遠に生きると思って学びなさい。」という有名な言葉を残している。また、織田信長は「「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか。」 (人の一生など儚く短いものだ。命あるものはみな滅びゆく定めにある。)という幸若舞「敦盛」の一節を特に好んで舞ったと云われる。
また、スポーツ心理学の学術誌『Journal of Sport and Exercise Psychology』に掲載された研究結果として、「バスケットボールの試合前に、“いずれは誰もが死を迎えること”をほのめかされた選手は、そうでない選手よりもシュートの成功率が高く、より多くの得点を稼いだ」とある。
更に、極端な例として、春秋時代の兵法家孫武の兵法書『孫子』は、「コレヲ死地に陥レテ然ル後ニ生ク。」 (兵を死地に置くことで活路が開ける。)と、自軍を敗北の瀬戸際に置き、兵に死を意識させることで奮起と結束を促すことができるという考え方を示した。
このように、いい仕事をした人のほとんどは、死を意識されていたと思っている。
合気道の創始者、植芝盛平大先生も素晴らしいお仕事をされたわけだが、当然死を意識された。そして更に生死を超越されておられた。どのように生死を調節されていたかと云うと、大先生は晩年、生き死には神様にお任せしていると言われていた事からもそれが分かる。
それでは、何故死を意識するといい仕事ができるのか、換言すると、何故死を意識しないといい仕事が出来ないのかという事になる。
先ず、死を意識するという事は、何時か死ぬという事を意識することである。そこでいずれ死ぬことになるから、しっかり生きたいと思うし、生きなければならないと思うはずである。もしかしたら、死は明日、いや今日中に来るかもしれないと思えば、一生懸命に生きなければと思うはずだ。そして死ぬときに、ああ、いい生き方をしたと満足して逝きたいと思うものだ。すると一番満足できる生き方は何かということになる。それは合気道での教えにある、己の使命を果たすこと、己の使命への挑戦である。画家にはいい絵を描く使命、政治家には世の中を治める使命、合気道家には地上天国建設の生成化育を守る武を磨く使命などに挑戦することだろう。命懸けと云う言葉があるが、死と隣り合わせの挑戦であり、これでいい仕事が出来るわけである。
いい仕事をするため、お迎えが来た時に満足するために、死を意識するわけであるが、死の意識には次の段階があると思う。