【第739回】 悟っては、反省し

合気道は、それほど多くない基本の形を繰り返し々々稽古していくが、形を覚えるのはそう難しくない。難しいのは、形を覚え、それで相手を投げたり抑えたりすることが合気道だと思ってしまうことである。そしてそこから抜け出すことが難しいのである。
後で分かるものだが、この段階の稽古も大事であるが、この段階の稽古を抜け出さなければならないのである。それは何かというと「技の錬磨」である。

形の中に潜んでいる技を見つけ、そして会得して、技をつかうようにするのである。そして形が技で凝縮されるように技をつかっていくのである。
技とは宇宙の営みを形にしたもので、宇宙の法則に則ったものである。それ故、究極的には宇宙、天地自然に学ばなければならないということになる。

大先生にはある時期から人間の師がいなかった。大先生の師は天地、自然であった。
我々には師がいる。最高の師は大先生である。見える世界の顕界には居られないが、多くの事を教えて頂ける。幽界の稽古をすれば最高のモノを教えて頂ける。
だから初めは大先生に学ばなければならない。そして大先生から学んで行くと段々と天地、自然から学ぶようになってくる 大先生が天地自然から学ばれたから、自然に天地自然から学ぶようになるのである。大先生に学ぶことは、天地自然に学ぶ事であり、天地自然に学ぶ事は大先生に学ぶ事になるわけである。
例えば、大先生は、「私が合気道修行者に望むことは、どういうことかというと、この世界のありさまを終始よく眺め、また人々の話をよくきいて、良きところを自分のものに取り入れ、それを土台に、自分の門をひらいていかなければならない。例えば、天地の真象をよく見て、自らこの真象によって悟る。悟ったらすぐに行う、行ったらすぐ反省し、という具合に順序をたてて、悟っては、反省し、行っては反省するというようにして、だんだん向上していただきたい。(合気神髄 P.164)」と教えておられる。

ここで大先生は二つの事を教えられている。
一つは、天地自然から学んで悟れということ。
二つ目は、よく見て、悟り、反省、実践、反省す、というプロセス(順序)で精進していかなければならないということ、換言すれば、そうしなければ精進できないということである。
この稽古のプロセスは、所謂、科学的な手法である。
科学的方法とは、断片化された散在している雑情報あるいは、「新たに実験や観測をする必要がある未解明な対象」に関連性、法則を見出し、立証するための体系的方法である。
仮説を立て、実験や調査を行い、得られた結果から仮説を証明するというこのプロセスが科学的手法なのである。
合気道の技の錬磨はまさしくこの科学的手法なのである。だから、大先生は、合気道は科学であると言われておられるのである。

技は悟っては、反省し・・・と科学的手法のプロセスで、殻を破り向上していかなければならないのである。