【第735回】 魂の技 心と魂

合気道は魂の学びであるといわれる。それでは魂をどのように学んでいけばいいのかということになる。これを教えて下さる先生や先輩は、最早おられないようなので、自分で見つけていく他ない。
自分で見つけるとは、合気の道に則って、これまで身に付けたモノを基に試行錯誤しながら、それを探究し、会得していくということだろう。

まず、合気道は技を錬磨することに精進することが一つの鉄則であり、理合いであるから、魂も技を通して会得できると考える。
また、魂に関してはこれまでの稽古でも顔を頻繁に出しているので、それを土台にして進めていけばいいと考えている。例えば、これまで“魂魄”を“心と体”としていたことから、魂は心、魄は体としてきた。
そして技を体(魄)で掛けるのだが、その後、段々と体で技を掛けるのには限界を感じるようになるわけである。相手との体と己の体がぶつかり、相手が倒れなくなったり、争いとなってしまうのである。
そこで体ではなく、心で技をつかうようになる。これを大先生は「すなわち心で導けば肉体を傷つけずして相手を制することができる。」と言われているのである。

しかしながら、心で技をつかえば大分上手くいくようになるのだが、この心の技にも限界があり、完ぺきではないのが分かってくるのである。
心で技をつかっても、その技はまだ人間の領域にある、人工的な技だからである。
何故ならば、心は脳機能によって活動するからである。脳は好き嫌い、恐怖や安心、友情や敵対心などを心に働きかれるわけだから、緊張したり、用心したりすれば、心は安定しないし、宇宙の法則に合したものにならないのである。

そこで心の技の次の技が必要になるわけである。そして体の技、心の技で、またこれらを基にして出現してくるのが魂の技である。
魂の技を生み出すために、まず、心と魂の違い、そして関係を見なければならないだろう。
まず最初に「魂」を辞書で調べてみる。
尚、「魂」は“たましい”と読んだ方が分かり易いと思うので“たましい”とする。“こころ“と”たましい“となり、”しん“と”こん“ではない。
“たましい”とは、「人の肉体に宿り、生命を保ち、心の働きをつかさどると考えられるもの。肉体から離れても存在し、死後も不滅で祖霊を経て神霊になるとされている。霊魂。また、自然界の万物にやどり、霊的な働きをすると考えられているものを含めていう場合もある」(『大辞林』)とある。
ここで大事な事は、「たましいは、心の働きをつかさどる」という事である。
肉体を動かし、技を生むのは心とたましいがあり、心を動かすのはたましいであるということである。

魂(たましい)が心に働きかけるということはよく分かる。例えば、自分の心で思ったことをもう一つの何モノかが、それはいいとか駄目だとか、こうやった方がいい等と言っていることである。これをこれまで“真の心”といい、そしてこの“真の心”が魂であろうと言ってきた。心よりもたましいの力の方が強力であるということでもある。それは、技を掛けるにも、頭(心)で考えてやっては中々効かないが、相手を意識せず、相手を倒そう極めようなどを忘れ、理合いで体と息をつかえばいい技になるが、これがたましいの力だろう。
歌舞伎の女形の名優中村歌右衛門は、「頭で計算している芸は駄目。ふっと出るのがいい」と言っている。
これがまさしく、心にたましいが働きかけることであり、そしてこれは心を無にするということだろう。
たましいが心に働くと、心は無になり、心は閉ざされ、たましいが入り、たましいで動くことになるということである。

上記から、心と魂(たましい)の関係は、心は脳の働きであり、意識であること。魂は脳とは関係ない無意識といえるだろう。つまり、心と魂の関係は、意識と無意識の関係という事でもある。

今回は魂(たましい)と心について書いたが、今回のテーマ「魂の技」は紙面の関係上、次回とすることにする。