【第734回】 正勝、吾勝、勝速日について

相対稽古で技を練り合う稽古をしている際、例えば、力まないよう、魄の力に頼らないよう、陰陽十字につかおう等と思いながら技と体をつかっているのだが、時として、相手の気持ちが変わったり、己の気まぐれでそれが忘却の彼方に吹っ飛んでしまい、己の目指したものに反したりしてしまい避けていた技づかい、体づかいになりがちである。
また、稽古仲間や後進の相手と技の稽古をしている際、その後進の相手に、例えば、足は右左陰陽につかわなければならないから、この右足の次は左足が動かなければならないと言ってやると、上手く出来ることがわかるので、その時はそうやるのだが、段々、以前の自己流になってしまうものである。
このような時にいつも頭に浮かぶ言葉が「正勝、吾勝、勝速日」の「吾勝」である。
つまり、吾に勝てなかったということであり、言うなれば、己の心に負けたということであると考える。

「吾勝」を大先生は、“吾勝はたゆまぬこと”“吾に勝つこと”等と云われているが、これでは分かり難いので、「吾勝」を己の心に勝つこととしている。
例えば、戦おうとする心、手を抜こうとする心、魄に陥ろうとする心に勝つことである。
何故、“吾”が心かというと、自分がそう感じるからであるが、大先生は“心は正勝・吾勝に精進できます。”(神 P.68)とも言われているのである。

それでは「正勝」とはどういうことかということになる。大先生は、「正勝」は“屈せぬこと”“ 正(まさ)しく勝つこと”等と云われているわけだが、これは「正勝」を会得した結果論であるので、我々には分かり難い。「正勝」を身に付けるためにはどうすればいいのかが分かれば、「正勝」がより分かり易くなるはずである。
「正勝」の“正“は。宇宙の法則であり、宇宙の営みであると考える。これは真理であるし、神と言ってもいいものである。この”正”に負けないよう、つまり、宇宙の法則・営みに則ることが「正勝」と考える。この真理は広大無辺で終わりがないわけだから、この追及にも終わりがない。それ故、「正勝」は“屈せぬこと”であり、正(まさ)しく勝つこと”ことになるわけである。

さて、最後の「勝速日」である。大先生は、「勝速日」は「勝利栄光。電光石火や電撃よりなお速いんです。」「一瞬の機のうちに速やかに勝ち」等と言われている。
しかし、これもこれではよく分からない。その分からない理由の一つに、“正勝”、“吾勝”の“勝”が単語の後にあるのに対し、“勝速日”は“勝”が頭にあることである。前二者とは何かが本質的に違うということである。
“勝速日”の“勝”は、“正(まさ)しく勝つ“や”吾に勝つ“の”勝”とは違う意味を持っており、そして“勝速日”そのものの意味も違うと考える。

“勝速日”の“勝”は、“まさる”とか“すぐれている”“すばらしい”という意味になると思う。例えば、勝景、名勝等の勝である。
尚、“勝速日”の“速”は、大先生が言われるところの“時間を超越した速さ”“電光石火や電撃よりなお速い”ということである。
そして、“勝速日”の“日”は、“霊であり命である”といわれるから、“霊”とし、体に対するものとしたい。
これらから、“勝速日”は文字的に、“すぐれている時間を超越した速さの霊“とすればいいと思う。

もう一つの分かり難さがある。それは、正勝、吾勝、勝速日を並列に並べていることであるが、先ほどの“勝”の位置が違うことからも分かるように、正勝、吾勝、勝速日は並列的な意味ではないということである。
結論から云えば、“正勝、吾勝”を身につけることによって、“勝速日”という結果になるということである。A+B=Cである。これを大先生は、「時間を超越した速さを、正勝、吾勝、勝速日という」と時間を超越した速さである「勝速日」に「正勝、吾勝」を加えられて言われていることからも分かる。

最後に、何故、正勝、吾勝、勝速日が大事なのかということになる。それは、合気道の修業の目標は、宇宙との一体化にあるわけだが、その為には正勝、吾勝、勝速日が必須であると、次の様に教えておられるからである。
「正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することにある」(合気神髄P.34)。
また、大先生は、「戦わずしてすでに勝つところにこそ、合気道の要諦とするところの正勝、吾勝、勝速日の大いなる価値があるのです」(合気神髄P.159)と言われ、正勝、吾勝、勝速日は合気道の要諦であると教えておられるからである。