【第730回】 武技は日月の息と地の息と合わして生む
合気道は技を練って精進していくが、合気道は武道であるからこの技は武技ということになる。中古の覇道的な合気道や魄に頼った合気道では、形を身につけ、力をつけ、魄力で敵を制するのが武技であったといえよう。所謂、己の力による、人間的な技と云えよう。
勿論、このような武技も身に付けるべきだ。体が出来るし、魄力がつく。しかし、重要な事はこの段階で終わりではないということである。この段階を土台にして先に進まなければならないということである。
進む先は真の合気道である。大先生はこれを武産合気と言われていると考える。そしてまた、この合気道を魂の学びの合気道というのだと思う。魄を土台にし、魂を表に出す武技の合気道である。己だけの力だけではなく、宇宙の力をお借りするのである。
このためにいろいろ試行錯誤しながら修業を続けているわけだが、今回は「天の息と地の息と合わして武技を生む」を研究してみたいと思う。
大先生は、「天の呼吸は日月の息であり、天の息と地の息と合わして武技を生むのです。地の呼吸は潮の満干で、満干は天地の呼吸の交流によって息をするのであります。天の呼吸により地も呼吸するのであります。(『武産合気』P.76)」と教えられているので、天の息と地の息と合わして武技を生むようにしたいと思っているわけだが、先ずこの大先生の教えを解釈しなければならないだろう。
- 「天の呼吸は日月の息であり」とは、お日様とお月様の息が天の息であるということ。ここで大事な事は、ここには言われていないが、天の呼吸は吐く息であるということである。つまり、お日様とお月様の息の両方が吐く息であるということである。お日様の息は簡単に吐けて地に落とせるが、お月様の息が一寸難しい。
お日様の息を吐いて地に落すし、更に息を吐き続けると(お月様の息)、地に落ちた息が跳ね返って上に昇ってくる。これは恰もお月様の息、又はお月様の引力のように感じられるものである。
お日様とお月様の息の両方は吐く息であり、天の息であるが、お日様の息は地に降り、お月様の息は更に地に降りるとともに、天に昇っていく息と感じられる。
尚、この吐く息で一方(お日様)の息が地に降り、他方(お月様)の息が地に降り、そして天に昇る息づかいは普段の健康人の歩き方でやっていることであり、本来それほど難しいことではないはずである。息を吐きながら足を踵から地に着き、そしてそのまま息を吐きながら爪先を地に着けて歩いているはずである。高齢者などが上手く歩けないのは、お日様の息だけで歩き、爪先をつかわず、お月様の息をつかわないで歩いているからだと見ている。
- 「天の息と地の息と合わして武技を生むのです」とは、前項の息を吐く天の息と息を引く地の息のコンビネーションで武技を生まなければならないということで、天の息だけでも地の息だけでも武は生まれないという事である。地の息については次に説明する。
- 「地の呼吸は潮の満干で、満干は天地の呼吸の交流によって息をするのであります」とは、地の呼吸は潮の満干、別名、潮満の玉(赤玉)と潮干の玉(白玉)であること、そしてこの満干は天地の呼吸の交流によって生まれるということである。尚、“地の呼吸は潮の満干”とあるように、まずは満ちて、そして干することになる。
具体的に云うと、天の息のお日様の息が地に降り、そしてお月様の息が上がる、それに合わせて息を引くと(吸う)、腹中に息と気が満ちる。これが潮の満ちる潮満の玉(赤玉)である。更に息を引き続けると胸中に息と気が満ちる。この息は胸に引いてはいるが、同時に胸から腕、手先・足先に発散していると感じられる。潮満の赤玉に対し、これが潮干の玉(白玉)と感じる。
- 「天の呼吸により地も呼吸するのであります」とは、先ず天の呼吸、つまり、吐く息で息と体と気を地に落すお日様の呼吸と更に地に落ち、そして上に昇ってくるお月様の呼吸の天の呼吸から始めないと、引く息の地の呼吸はできず、武技は生まれないということである。
先ずは縦の息であり、吐く息であり、水の息である天の呼吸から始めよということなのである。
これらは形稽古でつかってみれば実証できるはずであるし、この教えに違反したり、無視していれば武技は生まれないのである。
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