【第729回】 すべてが仲間、師

年を取ってくると、これまで分からなかった事が分かるようになり、気がつかなかった事に気がつき、見えなかったことが見えてくるようになる。若い時にはあまりなかった、喜びや感激や驚きが頻繁に起こるようになるようである。

今回は、“すべてが仲間、師である”ことが分かってきたことである。合気道では、宇宙や自然の万有万物から学ばなければならないと教えられているが、年を取って来てやっとこの意味が分かってきたようだ。
これまでは動物や植物などの生物、川や海、太陽や月などの活動しているモノから学ぶ事ができることは分かったし、学ばさせて頂いており、師とも仰いでいた。しかし、動かない無生物を仲間とか師と仰ぐことなどは思ってもみていなかった。
しかしながら、大先生は万有万物のすべてが仲間であり、師であると言われており、そしてやってこられていたのである。すべてが師であり、仲間でなければならないわけである。

これまでそれが分からなかったのは、魄の物質文明に生きており、合気道の稽古も魄の稽古をしていたからのようだ。精神を重視する精神世界に入り、合気道も魂の学びの稽古に入ってくると、すべてが仲間であり、師であることが分かってくるようである。

無生物でも仲間や師になるということは、何も不思議でもおかしいことでもなく、人は無意識的に無生物を仲間や師としているのである。
例えば、子供の玩具である。玩具は無生物であり、話すことも動くことも出来ないが、子供は友達、仲間のように話しかけ、世話して一緒に遊んでいる。
犬や猫などのペットもそうだが、大人でも車、自転車などの愛用品は、自分の分身とか仲間として取り扱っている。また、その典型的なモノが武士の刀であろう。自分の魂が入った自分の分身なのである。

合気道の世界では、木刀、杖、鍛錬棒などつかって身心を鍛えるが、初めの内は、これらは無生物の只の得物として扱っているが、段々といろいろ教示してくれる相棒となり、兄貴となってくる。そして最後には、宇宙の秘密を無限に教えてくれる神という事になるわけである。大先生は、木刀を下げて「ここに宇宙が入っている」とよく言われていた。それ故、木刀、杖、鍛錬棒をつかわせて貰う前と後には礼をすることになるわけである。

すべてが仲間、師、そして神に見えてくるようになるのである。
若い内は難しい。年を取る利点である。目に見えるすべてが仲間、師、そして神に見えてくれば、こんな楽しいことはない。対話をしたり、教えを受けたりできる。孤独で寂しいなど縁遠い。例えば、朝起きたら、各部屋に「おはよう」と挨拶するといい。答えの声は聞こえないが、何かを感じるだろうし、部屋との一体感、そして今日一日一緒に頑張ろうと言う仲間意識が生まれるはずである。