【第729回】 心、念と魂

前回の「魂は科学されて出てくるもの<その2>」で、魄の技づかいから、息や念で技をつかい、そして更に魂で技をつかうようにしなければならないと書いた。
魄の力での稽古から脱出するためには、先ずは魄の力に変えて、心や念で技を掛ければいい。心や念、又は心と念で技を掛ければ、己の体も相手もより素直に従うものである。また、己の体は心のままに動いてくれるし、相手も反抗心を起こしにくくなるのである。従って、怪我もなくなる。これを大先生は、「自己の身をそこなわぬようにして相手を制せねばならぬ、すなわち心で導けば肉体を傷つけずして相手を制することができる」と言われているのである。相対の形稽古で相手を怪我させてしまうのは魄の力に頼っているからで、相手に怪我をさせないためには、心で技と体をつかわなければならないということである。

心や念で技がつかえるようになったならば、魂が働くようになると前回で書いた。つまり、「魂は身心によって科学されて出てくる」のである。
しかし、魂を出すのは容易ではない。少なくとも、心や念で技がつかえるようになっていなければならないが、これもまた難しい。この為にもやるべきことがあるからである。例えば、イクムスビの息づかいや陰陽十字などの宇宙の法則を身に付けていなければならないのである。
これらを身に付けることは、魄の力に頼った稽古を続けていては難しいと考える。それまでと違った、異質の稽古、大袈裟に言えば真逆の稽古をしなければならないのである。さもないと、魄の稽古から抜け出せないだけでなく、体を壊したり、心を病んだり、そして合気道からの早期引退となるはずである。

ここまでの稽古の段階は、次の様に区分できるだろう。
魄の力に頼った稽古 ⇒ 心と念が主導権を持つ稽古 ⇒ 魂が出る稽古
魂が出てくるようになれば、後はその魂で技になるわけだから、先ずは魂が出るようにしなければならないと考える。

ここで心・念と魂の働きの違いを確認してみたいと思う。
心とは、脳機能によって活動するもの、念とは、心の中で一定の対象に精神を集中させることであるから、やはり脳機能によって活動するものということになる。つまり、心と念は人為的働きである。
一方魂は、霊であり気であるからエネルギーがあるが、人工的なものではなく、宇宙(自然)の働きである。また、魂は宇宙の営みであるが、魂は己自身でつくらなければならないのである。
また、魂は出てくるものであって出すものではないのである。これも心や念と違うところである。大先生は、「魂は、身心によって科学されて出てくるものである」と言われているのである。

魂が出てくるためには、身心を科学でつかえばいいと言われるのであるが、身心とは、体と心であるから、体と心を科学でつかえばいいわけである。
それでは、ここの科学とは何を意味しているのか。大先生の言われる科学は、宇宙の法則と考える。つまり、身心を宇宙の法則や営みに則ってつかえば魂が出てくると言うことである。宇宙の法則・営みとは、陰陽十字であり、天の気、天の呼吸と地の呼吸等である。そして天地や宇宙と身心を繋ぐ阿吽の呼吸も科学されなければならないのである。

魂が出てくるようになると、宇宙の営みに乗ったことになる。合気道ではこれを宇宙との一体化というはずである。己の魂が出て、これが技を産むと、相手は自然で違和感を感じないし、これまでの魄の力とは異質で強力なエネルギーを受けることになり、納得して気持ちよく倒れることになるわけである。これは相手との一体化ということになるだろう。過って大先生の受けを取られた内弟子や先輩方はどなたも、どんなに投げられ抑えられても“非常に気持ちがよかった“と言われていたのは、魂でやられたからということになろう。
しかし、前の章にも書いたように、我々クラスのこの魂はまだ自己の魂であるから、大先生のように、宇宙の魂が出るように更なる錬磨が必要なのである。

過って大先生が居られたころには、武道界やスポーツ界だけではなく、芸能人、文化人、軍人、宗教家などなど多くの人が教えを乞いに来られていたが、大先生は技が上手で強かったばかりではなく、動作や立ち振る舞いが、非の打ちどころなく美しく、それにも魅了されたものだったからと考える。それは、我々の魄、心や念の次元の動作や立ち振る舞いを通り越した、魂の立ち振る舞い、つまり、「身心によって科学されて出てきた魂」を土台にした「宇宙の魂」でのものだったからだと考える。