【第728回】 相手を見ない

相対稽古で後進と技の練り合いをしていると、過って自分が侵していた間違いを後進がやっており、そのために技が効かないということがよく分かる。そして大先生が我々に教えておられたのはこういうことだったのかとわかってくるのである。
その教えは、今回のテーマの「相手を見ない」である。

ある程度、形を覚え、力がついてくると、相手を倒そう、極めようとするようになるものだが、思うようにいかないものである。勿論、力不足もあるだろうが、それは技の法則に違反したり、大先生の教えに従っていないからである。
その教えの一つが、今回の「相手を見ない」違反である。しかし、これが中々難しい。色々な見てしまう対象があり、そして見える次元だけではなく、見えない次元での“見てしまう”があるからである。

「相手を見ない」の最初は、相対稽古の相手そのものを見ないということである。相手を見れば、相手が大きいとか、強そうとか、これは敵わないと思うとか、逆にこれならひとひねりでできる等と思ってしまうからである。つまり、魄の稽古でやるということである。
しかし、相手が居ることや手足がある人間であることなどは確認したいのは当然であるわけだから、「相手を見る」必要はあるはずである。
合気道では、相手を見るのではなく、全体像を捉えればいい。それは気というものだと思う。合気道での相手を見ないで相手を“みる“方法は、大先生が教えておられるので後で示す。

次の「相手を見ない」と言う意味は、
相手との接点、主に相手と接している相手の部位を見ないということである。相手が掴んでいる手や掴まれている己の手を見てしまいがちであるが、それを見ないようにするのである。例えば、片手取り四方投げや諸手取り呼吸法など、初心者はその接点を見がちであるが、それを目で見たら力が発揮できないし、技にならないのである。
ここから抜け出すのも容易ではないが、注意して稽古をしていけば問題なく出来るはずである。
しかし「相手を見ない」はこれで終わりではないのである。

この上記二つの「相手を見ない」は、目で見ないということである。が、もう一つの「相手を見ない」がある。それは“心でみない”ということである。相手や相手との接点を目で見なくなっても、心で見続けていると、その接点に体と技が呪縛に掛かったように動けなくなるのである。目はそこを見ていないのだが、そこに心が残っているのである。つまり、まだ心が相手を見続けており、相手に囚われているのである。
この“心でみない”、“心を残さない”になるのは、目で見ないようになるよりも難しいだろう。よほど真剣に稽古をしないと身に着かないはずである。
この稽古のために、一番一般的で最適なものは「(逆半身片手取り)転換法」であろう。相手を見ないで、相手の手も見ないで、そしてそこに心を残さずに、息に合わせて転換する稽古である。最近はこの稽古が少なくなってきている傾向にあって残念だが、この「(逆半身片手取り)転換法」は、「相手を見ない」稽古には必須であるだけではなく、特に「片手取り・諸手取呼吸法」はこれが出来る程度にしか出来ないものである。そして更に、いつも云うように、呼吸法が出来る程度にしか、技はつかえないわけであるから、この転換法は技の基本練習法ということになるわけである。

最後に、この「相手を見ない」の大先生の教えが如何に大事であるかを強調することにする。過って大先生に再三教えて頂いたが、今でも耳に残っている。そして『武産合気』『合気神髄』を読み返していくと、その大先生のお言葉と文字がシンクロし、その意味を理解するとともに、技につかえるようになってきたわけである。

まず、相手を見てはいけないということであり、しかし相手を見ないで“みる”ためにはどうするかである。
大先生は、「相手をみるのじゃない。ヒビキによって全部読み取ってしまう」と言われているのである。ヒビキによって“みろ”ということである。これからの修行の課題であり目標である。

「相手を見ない」のは絶対必要であり、例え相手が木刀のような武器を持っていても、相手を見たり、相手の目を見たり、勿論、相手が持っている武器を見てはならないという教えである。
そして、心を残すことも“みる”ということになるが、これは先に目の問題に対する心の問題であると、次の様に教えられておられるのである。
「相手が木刀を持ってくる。相手を絶対に見ない。合気は相手の目を見たり、手を見たりしてはいかん。自分の心の問題、絶対に見ない。」

以上