【第727回】 魂は科学されて出てくるもの <その1>

有川定輝先生の教えに従って、呼吸法を重視して稽古をしている。先生は呼吸法が出来る程度にしか技はつかえないといわれていたので、呼吸法のレベルアップをすれば、一教でも四方投げでも技がレベルアップすると考えているからである。そして最近になって、この教えは正しいとはっきりと自覚するようになった。

合気道で、一般的に最も典型的な魄の稽古は諸手取呼吸法であろう。この稽古は腕や腰腹の体に力がつく稽古法であるが、受けの相手も力がついてくると互角になり、相手が倒れるどころか、逆に返されてしまったりすることになる。
自分の場合もこのような状態での稽古が相当長く続いた。何とか相手を倒せるようになろうと、鍛錬棒を振ったり、筋トレをしたりしたものだ。しかし、稽古相手や稽古仲間も力をつける鍛錬稽古をしているので、力と力のぶつかり合いの稽古となり、そこから抜け出すのは容易ではなかった。

こんな魄力に頼る稽古から抜け出させて下さったのも有川定輝先生だったのである。ある時、片手取り呼吸法で相手に体当たりして、相手を跳ね飛ばして悦にいっているところに先生がこられて、「そんな稽古をしていると力はつかないぞ」と言われたのである。私は過って先生がやられていたような技と体づかいをしていたので、そんな風に言われるのが不可解だった。
そしてこの件を数日考えた。するといろいろな事が見えてきた。一つは、有川先生ご自身がその時はすでに、以前の荒っぽい、中古の覇道的な合気道から、理合いのどっしりとした合気道に変わられておられた事である。そこで先生に、どうして先生は変わられたのですかとお聞きすると、「病気だよ」と一言云われたのである。この言葉がどのような意味だったのかよく分からなかったが、無理をすると病気になるぞ、または、病気をしたから魄力に頼らないようにしたのだという事ではないかと思った。

そして私自身も魄の力に頼らない稽古をしなければならないと思ったのである。そのため先ずやったことは、有川先生の示される技や動作を凝視し、真似をすることであった。そして後で分かってくることになるが、先生は我々稽古人に、魄に頼らないための大事な事を毎時間教えようとされていたということである。稽古の後、先生は私に必ず「今日はどうだった」と聞かれたものである。数年間はこの意味が分からず、今日は暑かったですねとか、稽古人が多かったですねとか、今日の相手は力が強くて思うように技が掛かりませんでした等、先生の質問の趣旨に関係のない答えをしていたわけだが、先生はにやにやしながら、「そうか」とか「そうだな」とか言われておられた。

先生が亡くなられる1,2年前になってようやく先生の「今日はどうだった」の意味が分かった。先生は毎時間、テーマをもって教えられておられたのである。私が初めてそれに気がついたのは、肘を支点とする技づかい、体づかいが本日の先生の稽古テーマであるということ、そしてこれが「今日はどうった」に対する答えだということであった。
その後も先生の稽古はテーマを持って教えておられたが、そのテーマが分かることもあったが、ほとんどは分からず仕舞いだった。分からないのだから、教えて下さればいいのにとも思ったが、これが有川先生の教えであったことが、今、よく分かる。もし、先生がその答えを言っておられたら、我々稽古人は自分で見て、考え、そして身に付けることをしなくなるということだったと思う。先生の愛の教えであった。私などすぐに答えを言っちゃうが、これは相手のためにならず、言うなれば自己満足のためということになるだろう。

途中の話が長くなったが、有川先生のお蔭で魄の稽古から脱却しなければ、上達もないし、果ては病気になってしまうだろうと思うようになったわけである。だが、魄の稽古からの脱出は容易ではない。相対での稽古相手の中には、力一杯で攻撃してきたり、受けを力んで頑張ったりする人もいるので、よほど注意しないと自分もそれに負けじと、力をつかったり、力んでしまったりすることになるからである。そうなれば元の木阿弥である。己の心との戦いである。

次に助けになったのは、大先生の教えである。『武産合気』『合気神髄』の教えである。この中には、魄の稽古から魂の稽古への教えが満載されているのである。しかし、魄の稽古をしている間は、この聖典を理解すること、その教えを会得することはできないはずである。
魄の稽古の次元から脱出するために、この教えにはいろいろあるわけだが、特に役立ったと思われるのは、合気道の技は陰陽十字、○に十、円の動きの巡り合わせ、イクムスビの息づかい、△○□、気の体当たりと体の体当たり等々であったと思う。

これで魄の力に頼らずに相手を制し、導くことが多少できるようになってきた。例えば、これまでの頑張られた相手が、諸手取呼吸法でも倒れてくれるようになったのである。
しかし、その稽古相手も何度か倒れると、学習して倒れないようになるし、力のある相手が力一杯掛かってくると操作が難しいこともあった。

そこで次の稽古に入って行ったのである。
それは心と念で技と体をつかうという事である。勿論、これも大先生の教えの中にあるものである。
大先生は聖典のなかで”心“に関して、「心は丸く体三面に進んでいかなければならない」、「自己の身をそこなわぬようにして相手を制せねばならぬ、すなわち心で導けば肉体を傷つけずして相手を制することができる。」、
また、“念”に関して、「念で技が無限に発兆するのです」、「この念で正しい稽古を積まなくてはならない。」などと教えられておられるのである。

この“心”と“念”を更に加えて技と体をつかえば、魄力に頼るのがより少なくなるので、稽古相手が多少力を入れて掴んで来てもそれを制することは容易になった。
しかしながら、これで十分ではないことが分かってくるのである。理由は、この次元はまだ人間個人の領域の力なのである。
例えば、心や念も人間個人のモノである。何故ならば、“心”とは、己の脳機能によって活動するものであり、“念”とは、その心の中で一定の対象に精神を集中させるものであるからである。

次の次元に進まなければならないということである。
それが“魂”ということになるが、長くなりすぎるので次回とする。