【第726回】 理想のイメージづくり

合気道を半世紀以上続けている。合気道の考え方、稽古のやりかた、稽古の目標や意味等々が、今と昔では大分変ってきている。勿論、合気道は技を錬磨して精進するのが基本であるから、少しでも上手くなりたいと思い続けている事には変わりがない。やはり合気道の修業でも変わるモノと変わらないモノがあるということである。

稽古仲間の後輩や後進と一緒に稽古をしていると、何かが欠けているように思える。よく観察してみると、何をどのように稽古していけばいいのかが分からなかったり、それに余り興味を持たないことである。目標と理想のイメージを持っていないからだと思う。
我々が入門して、がむしゃらな稽古をしていた頃は、大先生や若先生と呼ばれていた吉祥丸先生をはじめ、藤平光一、斉藤守弘、多田宏、有川定輝、山口清吾などの蒼々たる先生方が日替わりで教えておられたので、その先生方のようになりたいと、そのイメージを負いながら、その時間々々の先生の真似をしていたものだ。休み時間には、よく先輩が前の時間の先生の技づかいを真似して披露してくれたが、先生そっくりで手を叩いて感心したほどであった。ある時、先輩が大先生の真似をしているのを感心して見ていたら、突然大先生がお見えになり、お前たちにはまだ早い、もっと基本を稽古しなければならないとお目玉を食らったのを思い出す。
当時は、自分はこの先生のようになりたい、このような技づかいをしたいと誰もが思ったようだし、その理想のイメージを持つことが出来たと思う。
勿論、大先生や他の先生方は非常に個性的であったので、はじめの内はどの先生の技づかいも身に付けようとしたが、段々と一人の先生に集中するようになった。私だけでなく、先輩方もある先生の時間だけ稽古に来て、一人の先生について稽古をするようになっていった。
つまり、その先生とその技づかいが理想のイメージであり。それを目標に稽古を続けていたということになるわけである。
本来なら大先生を理想のイメージとして稽古をすべきだったわけであるが、それは誰もできなかった。次元が違っていたので、イメージの持ちようがなかったのだと思う。

さて、大先生や吉祥丸道主、それに先述の先生方が多田先生を除いて全て亡くなってしまったわけで、最早、お目に掛かることも、教えを受けることもできなくなってしまった。それでは何を、誰を目標に稽古をすればいいのかということになる。これが問題だと思っている。

目標がなければどのような稽古をどうするのか分からないはずである。
目標とは理想のイメージを持つということにもなろう。イメージを持てれば、それに少しでも近づこうとするから、試行錯誤をし、研究することになる。これが進歩、上達である。

勿論、魄の次元での顕界の合気道の稽古ではある程度教えたり、学んだりすることはできるので、初心者は理想の先生に出会い、理想のイメージを持つことができるだろうが、魂の学びの幽界での合気道に入って行こうとするとそれが難しくなってくる。
結論から云えば、理想のイメージは自分自身で見つけて身に付けていかなければならないと考える。自分自身でということは、全てを自分自身でということではない。先人が残して下さった教えや知恵、自然や宇宙の教えなどを自分で見つけ、身につけるのである。そしてそれを後進に残せば、後進がそれを理想のイメージとして見つけ、身に付けてくれるかもしれないということである。

理想のイメージには、大きなイメージと小さなイメージ、見えるモノのイメージと見えないモノのイメージ等多種多様あるが、遠慮なくそのすべてのイメージを理想として持てばいい。金もかからないし、誰も文句もいわない。
例えば、大きな理想のイメージを大先生の技としてもいいし、宇宙の営みでもいいだろう。小さな理想のイメージは、ある先輩のある技であってもいいのである。
また、見えるモノの理想のイメージを先生や先輩の技としてもいいし、見えないモノの理想のイメージとしてスサノウノミコトでもいいだろう。

理想のイメージは多種多様で自由である。より質の高いモノを持つためには、多種多様のモノに興味を持ち、いろいろ研究し、会得していかなければならないと思う。勿論、合気道での理想のイメージを持つためには、大先生の教えを勉強しなければならない。その教えは必ず理想のイメージに導いてくれるはずであるし、大先生の教えを無視したり、軽視すれば真の理想のイメージは持てないのではないかと思っている。
例えば、合気道は真善美の探究であると教えられている。少なくとも合気道の中にはこの真善美が無ければ理想のイメージにはならないはずである。