【第725回】 仏像に学ぶ

合気道は形稽古で技を練って精進する武道である。だから、形は大事である。形を疎かにすれば上達はない。
それでは合気道で形を大事にするとはどういうことか。一般的に云えば、多くもなく、少なくもない形であり、欠けたところも、余分なところもなく、美しく、武道的に力が充実した形になるようにすることであろう。
これが第一段階の美であろう。

次の美は、宇宙の営みに則った技が詰まった形の美である。つまり、宇宙の営みに則っている技は美しい。宇宙と一体化していることになり、無駄なく、美しく、正しく、善いのである。これを真善美という。合気道はこの真善美を探究するのである。真の美は、善であり、そして真であるということでもある。

第一段階の美の追求は、それほど難しくないはずである。先生や指導者の形の真似をすればいいからである。目に見えるからである。出来るだけ、先生の真似をして、無駄を取り、欠けているのを補うように動き、技をつかっていけばいいだろう。

次の段階の美の追求は、第一段階と違って容易ではないはずである。見えないモノから美を追求しなければならないからである。
技が宇宙の法則に則ってつかえるようにならなければならない。その為には、宇宙の法則を見つけ、身につけなければならないし、イクムスビや阿吽の呼吸も身に付けなければならない。最早、形の追求ではないのである。しかし、美の形の追求が稽古の目的ではないが、技の結果は美しくなければならないのである。
それでは何を目標にして美を追求すべきなのかが問題になる。私の場合は、合気道をつくられた大先生に5年ほど教わっていたし、大先生の直弟子でもあった有川定輝先生をはじめ、植芝吉祥丸先生、多田宏先生、藤平光一先生、斉藤守弘先生、山口清吾先生等にも教わっていたので、それらの先生方の美によって、己の美の目標が自然と出来てきたと思っている。

しかし、己の技の美、そして合気道の形の美はまだまだ不完全である。大先生をはじめ、大先生の直弟子の先生方も多田先生以外は亡くなられてしまったので、もう教えを乞うことは出来ないし、更なる美の追求の教えも得られない。自分自身で追及していくほかない。

ここ数年、仏像展や仏像関連展を見る事が増えてきているが、それは美の追求のためとそこから何かを学ぼうとしているからではないかと思う。例えば、特別展「出雲と大和」、「正倉院展」、「運慶展」、「蔵王権現と修験の秘宝展」、特別展「みちのくの仏像」、「宗像大社国宝展」、「鈴木空如と法隆寺展」等を近年見てきた。
しかし正直に言って、これまでは展示されている仏像のよさがよく分からなかった。その良さや素晴らしさがわかってきたのはつい最近である。

何故、最近その素晴らしさが分かってきたかと考えると、己の合気道と関係があるようになったからである。やっと己の合気道が、見えない世界の次元の稽古に入ったことにより、ものの見方も、見えるモノだけではなく、見えないモノを見るようになったようだからだと考える。見えないモノを見るという事は、仏像の心と作者の心を見るということである。
例えば、阿吽の呼吸は見えないモノで、難しい息づかいであるが、合気道にとって非常に大事な息づかいである。この阿吽の呼吸に四苦八苦している時に下の阿吽像(写真)を見た。どのように息をつかうのか。そうすると口、胸、腹、手先、足等の体がどうのようになるのか分かり、この形と気持ちになるようにすればいいだろうと思うようになったのである。阿吽の呼吸のイメージがついたわけである。
更に、天と地をしっかり結んだ体軸、重心が掛かる足側の手は地に下ろし、反対側の手が上がる、地に重心が下りるためには腹が十字に返っていなければならない等を学んだ。
そしてこの目で他の仏像展を見ると、みんなこの法則に則ってつくられている事がわかる。

阿吽像とは違った雰囲気の仏像もあるが、別なことも教えて貰えた。
それは学ぶのも教えるのも難しい“天の浮橋に立つ”である。
これらの仏像を見ると、それが分かり易いと思う。この仏像は上下前後左右少しも身心の隔たりがないし、宇宙と一体化している。それ故、もし、この手を押したり引っ張ったりすれば、力を吸い取られ、それをやった方の手はくっついてしまい、仏像と一体化してしまうように感じる。

何故、仏像に魅了され、いろいろ学ぶ事ができるのかを考えてみると、写真家の加納鉄斎氏の言葉が出会った。「真を写す 形を写さず」(写真不写形)である。人を魅了するのはモノの真であり、形ではないということである。
魅了される仏像は真が彫られているということで、形を彫っただけのものではないということである。だから仏像は形だけではなく、その心を見なければならないことになる。
合気道も形を追うのではなく、真が出るようにしなければ、美しくないし、人を納得させることは出来ないということになろう。美しい形を追わないが、その形は美しくなければならない。真がなければならない。

仏像、とりわけ日本の仏像は我々合気道の修業者に学ぶことが多いと思う。仏像を見せて貰い、己の美のイメージや宇宙の法則や天の浮橋等々学ばせて貰うのがいいと思う。