【第717回】 天の呼吸との交流なくして地動かず

長年稽古をしているせいか相対稽古の相手はよく倒れてくれるし極まってくれるようになってきた。これで技も身に着いてきたかと思ったのもつかの間、まだまだである事を実感した。しかし今度のまだまだであるという実感はこれまでのものとは異質であるし、重要であるから切実である。それはこれまでの強い弱いの問題ではなく、合気道の根本的なものに関わる問題なのである。これまでの問題は、合気道の技の形をしっかり身につけ、そして腕力、体力、気力をつけ、そして技の法則を身につけていけば解決できたようだ。

しかし、これだけでは不十分であることが分かったのである。
例えば、「正面打ち一教」である。これまではほとんどの相手をこの「正面打ち一教」で制する事ができたので、これで「正面打ち一教」を会得したかと思ったりもしたが、全然駄目だったことが分かったのである。受けの相手を力づくで打ち下ろしてきても、力一杯やれば相手は倒れてはくれるが、十分には納得していないのが分かる。

何故か、また、どうすればいいのかを悩んでいる時、大先生の次の教えに出会った。
「天の呼吸との交流なくして地動かず、ものを生み出すのも天地の呼吸によるものである。武も妙精を腹中に胎蔵してことたまの呼吸によって科学しながら生み出していくのであります。(略)天の呼吸により地も呼吸するのであります。(『武産合気』P.76)」

この“天の呼吸との交流”によって、「正面打ち一教」は大いに変わり、これこそが真の合気道の真の一教であろうと思っているところである。何故ならば、大先生が言われているように息をつかい、技を掛けているからである。
また、この“天の呼吸との交流”によって地も呼吸するわけであるが、この天地の呼吸により、受けの相手は天地につぶされるような圧を受けたり、宙に浮かされたりと、人の魄の力では決して生まれない力を受けることになり、納得することになるのである。

しかし、“天の呼吸との交流”は容易ではない。やるべきことをしっかりやらなければならにからである。
まず、“天の呼吸との交流”は阿吽の呼吸でなければならないようだ。日常的な息づかいでも、また、イクムスビでも出来ない。阿吽の呼吸は不思議な力と働きをする呼吸である。例えば、阿吽のアーは息を吐き、同時に息を引く呼吸である。また、上と下と逆に気と力を流す呼吸である。また、私が考えるに、阿吽の呼吸は息ではなく気の呼吸である。
因みに、上記の大先生の教えの中で“ことたまの呼吸”とあるが、これは阿吽の呼吸という事だと思う。

阿吽の呼吸による“天の呼吸との交流”に戻る。アーで呼吸をすると、気が天に昇り天と結ぶ、天に結ぶとほぼ同時に体重が地に落ち、足が地と結び、天と地との繋がりを感じる。アーの呼吸で、腹のところで天に向かう気と地に下りる気が分かれるのである。これをよく表わした写真があるので紹介する。本部で教えておられた有川定輝師範の姿である。相手が浮き上がらせ、そして押し潰している姿がわかる。また、腹から上は天の呼吸に、腹から下は地の呼吸に結んでいるのも分かる。

天と地との交流が出来れば、後は自由に動けるようになる。正面打ち一教や入身投げでも、ここから入身に入れるのである。天地の交流をしないで動けば、ぶつかったり、弾いたりしてしまうので腕力でやるほかなくなるわけである。これが、上記の大先生のお教えであろうと解釈し稽古で実践している。