【第716回】 迷いを切り払ってくれるもの

10年以上に亘って合気道の論文を書き続けている。我ながら、これまで一度も中断することもなく、よく続いていると驚いている。
驚いているもう一つの事に、自分でもまだよく分かりもしない事をよくも臆面もなく書いているということである。後で見ると、間違いがあることがわかるかも知れないが、それを恐れず、気にせずに書いている事である。

論文は自分が出来たこと、出来る事だけでなく、まだ、出来ない事も書くことになる。目で見える事を書くのは、そう難しくないし、誤りも少ないはずだが、目に見えないモノを書くには躊躇することが多い。
少しでも気を許せば、間違った事を書くことになり、合気道や世間を誤った方に向かわせてしまう事になる。これは最大の罪であると大先生は言われているから注意しているつもりである。

それが正しいかどうかが不確かなモノを論文に書き続けているが、それには不確かさや迷いを切り払ってくれる原動力がある。
一つは、合気道開祖植芝盛平大先生の教えである。その教えに沿っているし、叛かないようにしていることである。大先生の教えが凝縮されている合気道の聖典『武産合気』『合気神髄』の教えに反しないように注意していることである。
そしてまた、その教えに少しでも多く学ぶことをモットーとしていることである。
従って、わたしのこの論文に異を唱えることは、大先生に異を唱えることになるということになり、基本的に異論は出ないはずだと思っているからである。

二つ目の原動力は、過って本部道場で教えておられた有川定輝先生の言葉である。
先生がまだご健在で、我々に稽古をご指導されていた頃、私はまだ勤めていたが、仕事の関係で親しくなった業界誌から『ビジネスのための武道の知恵』を出版して貰った。これを有川先生にもお送りしたが、それを読んで下さった先生が感想を言って下さった。恐らく“まだまだだなあ”とか、“あれは違う”等々と言われるのかと思っていたところ、先生は以外にも“自分の言葉で書いたのがいい”と褒めて下さったのである。この時は、褒めて下さったのだなとは分かったが、“自分の言葉で書いた”の意味がよく分からなかった。私が書いた文章だから自分の言葉であるのは当たり前だろう思ったからである。
しかし、先生はもっと違う意味、深い意味でこれを言われていた事が最近ようやく分かってきたのである。

“自分の言葉で書いた”の意味は、自分の考えを書くということである。己の思う事、信じることを書くという事である。他人がどう思い、反対しても、自分を信じて書くことである。
因みに、その当時先生からお聞きして一寸意表をつかれたことがある。それは、先生が一番評価された武道書は吉丸慶雪著の『合気道の科学』であったことである。当時、この本に異論を唱える人が結構いたが、先生はこの本をいいと言われたのである。
今考えれば、吉丸慶雪氏もこの本を、自分の発想、自分の思想・哲学などで、つまり“自分の言葉で書いた”ということで、先生は評価されたのだと分かる。

この二つの原動力のお蔭で、時に襲ってくる迷いを切り払って描き続けているわけである。