【第716回】 比礼振り(ひれぶり)

合気道の稽古を続けて行くと、これまで気にしていなかったことが気になるようになる。『武産合気』や『合気神髄』などで、これまで何度も目にしていた言葉が気になるのである。気になるという事は、この言葉には大事な意味があり、身につけなければならないと思うということである。

直近のその気になる言葉は「比礼振り」である。この言葉にはこれまで何十回、何百回と出会っていたはずだが、これまであまり気にも留めず、興味もなかったし、いい加減だった。例えば、もしかすると、「比礼振り」とは魚などのヒレを振るようにして、相手を吹っ飛ばす事ではないだろうか等と思ったりしたものである。

大先生は、「合気道は、体と精神と共に、技を生み出してゆく。その技の中に魂のひれぶりがあればよい」(武産合気P.101)等と言われているのである。「魂のひれぶり」がなければ技にならないことになるわけである。
「比礼振り」を会得したいと思うようになったのは、“魂を上に魄を土台にして進む”の理合いが分かり、技である程度現わすことが出来るようになってからである。
そこでこれまでの研究した結果をまとめてみることにする。

まず、比礼振りの意味を調べると、
“ひれ”は比礼、領巾と書き、その意味はGOO辞書によると:

  1. 上代、害虫・毒蛇などを追い払う呪力を持つと信じられた細長い薄布。
  2. 古代の服飾具の一。女性が首から肩にかけ、左右に垂らして飾りとした布帛(ふはく)。
  3. 鏡台の鏡をふくときに用いた布帛。
  4. 儀式用の矛(ほこ)などにつける小さい旗。
この内、合気道に関係する“ひれ”は、1と2である。
“振り“は振り払うや振り返るなどの振りと考える。

次に、大先生が“比礼振り”をどのように言われているかである。
大先生は、
○「天之浮橋と同時にこの世が魂のひれぶりとなる。合気道においては、念彼観音力である。勿論、肉体即ち魄がなければ魂が座らぬし、人のつとめができない。魂の緒、魂を表に出すことである。今迄は魄が表に現れていたが、内的神の働きが体を造化器官として、その上に禊を行うのです。これが三千世界一度に開く梅の花ということです。これを合気では魂の比礼振りと言い、また法華経の念彼観音力です。」

ここから分かることは、「魂のひれぶり」のためには“天之浮橋”に立たなければならないということ、その為には、ひれぶる魂が働くために魄の肉体がしっかりしなければならないということ、その上でしっかりした魄の土台の上・表に魂を出さなければならないということである。そしてこれが“三千世界一度に開く梅の花”であり、合気道では“魂の比礼振り”というということである。つまり、“三千世界一度に開く梅の花”=“魂の比礼振り”なのである。

○「魂の比礼振りは、あらゆる技を生み出す中心である、その比礼振りは融通無碍で固定したものではない。ゆえに合気道の技は固定したものではなく、臨機応変、自由自在の技である。」

ここで言われていることは、技を生み出す上で最も大事な事は「魂の比礼振り」であるということである。そして更に、「魂の比礼振り」によって技は臨機応変、自由自在に出てくるということである。合気道の技は固定したものではなく、自由自在であるとはこの事を言われていると考える。

これで「比礼振り」「魂の比礼振り」が分かってきたわけだが、これを相対の稽古でやってみると、この「比礼振り」の比礼が振れるのを実感できるようになるのである。私の感覚としては、己の身体を覆っている気が比礼のように振れている感じである。大先生は、気は身を覆っている衣のようだといわれているので、魂と合わせてみるとまんざら妄想ではないと思う。
しかし、このためには、天の浮橋に立つこと、魂を上に魄を土台にして進むことの他に体を一軸にして陰陽十字につかうこと、腹の玉を∞につかうこと、阿吽の呼吸づかいをすること等が必要である。やるべき事があるので、これが出来なければ「比礼振り」は出来ない事になる。
理合いが分かれば、後は稽古を続けてこれを錬磨し、身につけていけばいいと考える。