【第715回】 体を怠けさせない

どうも人間の性は怠け者であるようだ。少しでも楽しよう、楽に生きよう、楽に働こうとしているようである。科学の進歩も経済の発展もこの人の怠け癖と関係があるように見える。人が楽することが出来るモノを発明し販売すれば、人はそれを評価し、購入することになるわけであり、これで世の中が動いているようにも見える。

今の世の中は便利になった。つまり楽に生活したり、働くことが出来るようになったということである。以前は力持ちが人力で運んでいた重い物もボタン一つ押せば運んでくれる機械があるから、以前の力持ちの仕事もひ弱い女性でも出来るようになった。近い将来には、ボタンを押す力があればどんな仕事もできる世の中になるかもしれない。

合気道の教えにあるように、物事には必ず裏表がある。これを上手くつかい分けしないと体は衰えることになる。
確かに、電車や車、エレベーターやエスカレーターは時間や労力が節約できる。しかし、これに頼っていくと楽中毒になり、これをつかわなければならないと思うようになるようだ。そしておかしな人間、おかしな社会が出来てくる。
例えば、少しでも楽しようと、若者が人を押しのけ電車やバスの座席を確保したり、健康な若者が階段ではなく、混んでいるエレベーターに入り込んだり、またお年寄りや障碍者などに席を譲らないなどが増えたり、一般化している。
 
便利になるだけ体は衰えると云っていいだろう。実際、街を歩く人を見ればいい。しっかりした足取りでまともに歩く人、美しく力強く歩く人はあまり見かけなくなってきた。なるべく楽しようと、歩いたり、電車などで立ったりしないからであろう。5年後、10年後には歩けなくなるだろうと思える人たちがどんどん増えているのが気になる。

これでは不味いと思って合気道の道場に通うわけであるが、この楽文化を道場稽古まで持ち込んでしまうようになっているようである。稽古でも体を鍛えず甘やかしてしまうのである。このような稽古は、日常や仕事のストレス発散にはいいだろうが、鍛錬にはならないから上達は期待できないことになる。

体は怠けさせないで、使うことである。体の刺激を物理的と精神的に与えるのである。限度いっぱいに力を入れたり突っ張ったりすることである。これは物理的刺激である。精神的な刺激は、例えば、稽古の後や禊ぎの後に水を浴びることである。体がしゃきっとする。これは昔から日本で行われていることなので、意味があるはずであるから引き継ぐべきである。

体を怠けさせないために、体を目いっぱい使って鍛えるわけだが、バランスが必要になる。この陰陽両方の鍛えがあって本当の鍛えになるはずである。
例えば、体は伸ばしたら引っ張るのである。伸ばすだけでは駄目だし、引っ張るだけでも体によくないし、また技も効かない。この両方ができるようになると、出しながら引くことが陰陽同時にできるようになる。この為には阿吽の呼吸が必要になる。阿吽の呼吸で出す引くの陰陽表裏一体の体づかいができるから、陰陽表裏一体の体づかいをするようにしなければならない。

また、阿吽の呼吸で出す引くの陰陽表裏一体の体づかいができるようになると、体の各部位(手先、腕、上腕、菱形筋、足等)と腰腹の力と気が繋がり、伝わる事になるから、各部位が個別ではなく、連結して働くようにしなければならない。

体には以上のように働いてもらわなければならない。理に合ったつかい方をすれば、体はしっかり働いてくれ、怠け者でないことを示してくれるものである。しかも、体には大変なはずだが、体はもっとこうした方がいいと教えてくれるのである。

体を怠けさせないで鍛えることは大事であるが、その為にも体を労わらなければならない。表裏がありまた一体であるから、片面だけでは上手く働いてくれないはずである。
それは、まず極限まで働いてくれた箇所をほぐしてやることである。稽古が終わったなら柔軟体操やストレッチ運動でほぐしてあげるのである。また、風呂などでのんびりしてもらうのもいい。それから体のためにも栄養を摂ることである。タンパク質などを十分に摂れば体は喜んでくれ、また、働いてくれるはずである。
基本的には、体に対する「愛」ということになる。「愛」でやれば、体は極限まで一生懸命に働いてくれるはずである。体は自分のものではない。お借りしているのである。お迎えが来たらお返ししなければならないのである。仲良くして、最大に働いてもらうようにしなければ、体も満足してお帰り頂けないだろうし、技も身に着かず、己にも悔いが起こるはずである。
体を怠けさせない事である。