【第712回】 己に勝つ

合気道は武道であるが、他の武道や武術とは大きく異なる。大きくとは量的、物理的な事なりではなく、質的、精神的な異なりということである。その最大の違いは、人に勝つためや争いに勝つために修行をしているのではないということである。それでは合気道の修業の目的は何かというと、己に勝つことである。
他の武道でも己に勝たなければならないと、禊をしたり、坐禅を組んだり、瞑想したりするが、試合があるために勝つことが主である。人に勝ためには己に勝たなければならないということそれらをやるわけだが、それは勝つための従であるだろう。勿論、剣道や弓道などの武道には、修業の末、人に勝つことではなく、己に勝つことであるとの境地に入っていく方も沢山おられたはずである。

大先生は、「合気道は従来の剣、槍、体術を宇宙の和合の理により悟ったものであるが、合気道は人に勝つためではなく、争いに勝ためでもなく、戦わずして勝つためでもない。自己の使命に与えられたる宇宙の使命に打ち勝つことである。」(合気神髄 P.109)と言われている。“自己の使命に与えられたる宇宙の使命”とは、人は皆、生まれてきたならば、宇宙から使命が与えられるので、自己には使命があるということである。
また、その自己の使命は合気道を体得することによって分かってくるといわれているのである。合気道を宇宙の運化(法則に合して)とともに進んで行き、合気道を体得したならば、宇宙の条理が分かり、また、自己をよく知り、自己の使命も分かってくると次のように言われているのである。
「宇宙の運化とともに進むことである。この善、正しさを、よく知らなければいけない。ゆえに、合気道を体得したならば、宇宙の条理が分かり、また、自己をよく知り、分かってくる。」(合気神髄 P.109)

合気道での“勝”とは、「己の心の中の「争う心」に打ち勝つこと。己に与えられた使命を成し遂げること。」(合気神髄 P.35)であり、これを合気道では「正勝吾勝」という。
勿論、合気道でも己に勝つのは容易ではない。合気道では相対で技を掛け合って技を錬磨して精進していくわけだが、やはり相手に負けまい、やられまいとして力んだり、頑張ったりし、小さいながら争いになってしまうものである。開祖大先生の教えの通りにやれば、争うこともないわけだが、その大先生の教えを理解するのも難しいこともあり、己の争う心に勝つことがなかなか難しいのである。

稽古で相手とも己の争う心とも争わないためには、先ずは天の浮橋に立たなければならない。これは大先生の教えであり、また、技をつかう際に絶対に必要なことである。
しかし、天の浮橋に立つのは容易ではないようだ。教えてもなかなか出来ないからである。天の浮橋に立つのは、心の領域になるからだと考える。これまでの手足の陰陽とか十字は、体で顕界の領域だったので教えれば分かってくれたようだが、天の浮橋に立つためには、心の幽界、体も深層の筋肉をつかわなければならないので、外からは見えないし、息でないと働いてくれない深層筋をつかわなければならないからです。

己に打ち勝つことは重要であるから、体得しなければならない。しかし、これは己一人の体得であり、他人様とは関係ない。所謂、仏教でいう小乗の悟りである。合気道の教えには、小乗と大乗の教えがある。小乗の合気道は、己と宇宙との一体化であり、大乗の合気道は地上天国建設の生成化育である。
小乗の合気道を会得出来たら、次には大乗の合気道である、地上天国建設のお手伝いをしなければならないと考える。これが大先生が望んでおられる合気道のはずである。
先ずは、小乗の合気道“宇宙との一体化”を会得し、悟らなければならない。そのためには、己に勝つことであると考える。己に勝とは自分との戦いであり、他人や他のモノとの戦いではない。これはある程度年を取らなければ難しい。若い内は、他に勝たなければならない、他との戦いになってしまうものである。このような若者や世の中のためにも、高齢者の己に勝つための己との戦いを示すことが出来たらば、少しは大乗の合気道になるだろう。