【第712回】 技と読解力

合気道の稽古をしていて、自分の技がどれだけ変わったのか、つまり上達しているのかいないのかを時として知りたくなるものである。通常は、道場の相対稽古で相手に技を掛けて、どのように相手が倒れるかによって判断しているわけだが、あまり正確ではないと思う。相手が弱く、力が弱ければ倒れるだろうし、相手が力を抜いたり、セーブしてくれても倒れるからである。
合気道には、体操やアイススケートのように点数による採点はないし、柔道や相撲などのように試合がないので、本当に強い弱いも、そして上達の程度も分からない。

しかし合気道の修業をしていれば、自分が変わっているのか、上達しているのか知りたくなる。
先述のように、形稽古で相手を投げたり抑えていれば大体の見当がつくが、それ以上に上達していると実感したくなるはずである。
勿論、ある技が出来るようになったのは一つの進歩・上達である。新しい法則を見つけ、その法則で体と技をつかった結果、その技が上手く効くという事である。上手く効くとは、法則に則っていることと、己が満足し、また、投げられた相手も納得することである。これは明白な上達である。

このような個々の変化や上達はほぼわかるものであるが、合気道家として、また、人間として本当に変わったのかどうかを知るには、どうすればいいのかということが問題であるということなのである。

その答えと思われることがひとつ見つかったので紹介してみる。
それは、難解な合気道の聖典である『武産合気』『合気神髄』が以前よりも理解できるようになった事である。以前はチンプンカンプンだったものが、最近では3,4割ほど分かるようになったことである。それまで分からなかった箇所や文章・言葉がわかってきたのである。己の技と関係づけてみると、技と読解力には相関関係があるように思えるのである。これが上達の尺度のひとつであると考える。

10割分かれば大先生のレベルに到達できるわけだが、それは不可能だとしても、少しでも多くわかれば、合気道の技も合気道そのものもそれだけ上達したことになると信じている。だから、更なる上達を確認するためにも、これらの聖典は詠み続けるつもりである。

また、合気道の上達、レベルアップによって、合気道に直接関係のない哲学書や宗教書や科学書にも興味を持つようになり、そのレベルに相応して理解するようだし、また、絵や彫刻などの美術を見ても、それまでよりも深い見方、つまり作者の内面を心で見るようになった。それまでは見える表面や外側をなぞっていいの悪いのと言っていたわけだが、形の中に隠れている、作者が言いたい、現わしたい心に興味を持つようになったわけである。
目に見える顕界から目に見えない世界へは、合気道も宗教も芸術にもある、世界の人に共通する法則ということになるだろう。合気道を上達し、レベルアップすればそれだけいろいろな世界を楽しむことができるようになるということだろう。