【第712回】 「合気会」認可申請上申書の“合気道”

合気道を精進していくためには体を練り技を練っていかなければならないが、体と技をどのように練っていかなければならないのかの為にも、合気道の哲学、理合いの為にも合気道の聖典である『合気神髄』『武産合気』を読まなければならないと考える。
しかしながらこの両書は誰もが知る如く非常に難解であり、一度や二度読んだぐらいでは理解できないどころか、何度読んでも分からないだろうと思われる箇所も多数ある。これらの難解の箇所は稽古のレベルが上がることによって分かるようになるようだが、レベルアップは何時、どのぐらい現れるのか分からないので、これだけに期待することは出来ないことになる。

この聖典となる『合気神髄』『武産合気』は、大先生のその都度の最高のお考えを言われ、書かれたものであると思う。だから難しいわけである。
そこでこの両書を理解する為に、これ以前に言われた事や書かれたものを研究すればいいと考える。つまり、他の書籍や書き物も研究するという事である。

最近、『合気道開祖 植芝盛平』(講談社)を読み返したところ、これまではっきりせず、よく分からない事で明らかになったことがある。
この本の中にある、“「合気会」認可申請上申書”(P.274)から、これまではっきりしていなかった合気道の明確な定義、そして又○△□と動が少しはっきりしたのである。
その一部を引用し、そしてその解釈をしてみる。
「そもそも合気道とは、(略)天地に融合する心身の保健、加害に対する護身の技術であります。護れば一つの球となり、展けば四角となり、構えては錘となり、動いては繭形となり、縮みては珠玉となり、真に千変万化、名状することが出来ません。」

先ず、合気道の定義である。明確に健康法であり護身の技術であるとある。武道を知らない役人にわかるよう、そして占領しているGHQにも刺激せず納得してもらえるよう気をつかわれているご苦労が感じられる。武術と言わずに護身の技術であるとしたことである。勿論、この後、合気道は地上天国建設や宇宙との一体化に変わってきたが、最初の定義は明らかに健康と護身武術であったわけであり、敵に負けないための武術であったわけである。今の合気道は争わない愛の武道ではあるが、根底には護身の技術である武術があることを再認識する必要があるように思う。

次に合気道の○△□と動きに関してである。“護れば一つの球となり”とは、心を円くして、息と気を腹に集めて身を護ると気に包まれ、心と気が球の○になるということであると考える。方円の器で包み込むということだろう。

“展けば四角となり”は、息を引いて相手を向かい入れる時は万全の四角になるということであろう。大先生は、引く息(吸う息)は四角で、吐く息は丸く、そして四角は万全の態勢と言われているからである。

“構えては錘となり”は、三角法の半身の構えであり、心を円く体三面に開く構えである。相手に対する場合はこれで構えなければならない事になる。

“動いては繭形となり”とは、合気道の技と体の動きは繭形になるということである。これまで技を掛ける際は、手も腹も∞でつかわなければならないと書いてきたが、この∞こそ大先生が言われている“繭形”ということになるはずである。これで合気道の技と体の動きは“繭形(∞)”にならなければならないことが明確になったわけである。

“縮みては珠玉となり”とは、阿吽の呼吸で息を引く場合も息を吐く場合も腹中に玉が産まれる。この玉は息と陰陽によって左右前後に動く珠玉になるということだと考える。体も技もこの玉で掛けるとも言っていいほど重要な玉ということである。

これで合気道は武術的な要素があること、健康法である事、○△□の事、技も体も“繭形(∞)”につかわなければならないことなどがはっきりしてきた。偶には原点に帰ることも必要なようである。そして『合気神髄』『武産合気』を理解するためにも、更に他の文献や書物を研究することにする。


参考文献   『合気道開祖 植芝盛平』(講談社)