【第711回】 魄の稽古からの脱出

合気道を始めてほぼ60年になる。これまで教えて頂いた先生方や先輩方は亡くなられたり、稽古から離れたりして、今では教えて頂くことは出来ない。
従って、まわりはほとんどが同輩か後輩ということになり、教える立場になってしまった。それ故、同輩や後輩のことはよく分かる。自分の歩んで来た道を進んでいるからである。彼らの今のレベルがどのぐらいで、これからこう変わっていくだろうとか、何に悩んでいるのか、何が問題なのか、その問題を解決するにはこうしなければならない等などがよく分かる。

10年、20年と稽古をしている後輩が悩んでいる最大事は、魄の稽古からの脱出が出来ないことである。己自身も悩みに悩んだ問題だったのでよく分る。だが、それにほとんどの稽古人はこれに気づいていない。
先ずはその魄からの脱出を、無意識ではやろう、やらなければならないと感じているようだが、意識してその重要さを確認し、努力する段階に進めないのが第一の問題である。ほとんどの稽古人は、口では力をつかわない、力は要らないといいながら、結局は腕力で技をつかっている。そして力に頼らない合気道を諦めるか、体を痛めて稽古から遠ざかっていくのである。

いい先生や先輩がいて、魄の稽古からの脱出法を教えてもらえればいいが、それは中々難しいだろう。もし、そのような先生、先輩に教えて貰えるとしたら運がいい。
魄の稽古は、合気道の形を覚え、力をつけて体を鍛える稽古である。物理科学であり、目に見える顕界での稽古であるから、教えることも習うことも出来る。
一方、魄の稽古の次の稽古は、精神科学の稽古であり、目に見えない幽界の稽古ということになるので、教えることも習うことも非常に難しいのである。

魄の稽古からの脱出のためには、これまでの稽古とは異質の稽古をしなければならないし、考え方も変えなければならない。極端に言えば、これまでと真逆なことをしなければならないということである。また、これまでの思い込みを払拭しなければならない等である。
このために一時弱くなるはずである。これまで倒していた相手が倒れなくなったり、極められてしまうのである。しかしこれに耐えなければならない。おのれ小癪等と腕力に戻ってしまったら駄目である。今度は相手ではなく自分との戦いになるのである。

魄の稽古の時期は、稽古をすればするほど上達するモノである。一時間でも多く稽古をすれば、それだけ上達するのである。
しかし、魄の稽古から脱出するためには、稽古の量も大事だが、この量よりも質が大事になる。つまり、量から質への転換が必要になるのである。
質の稽古とは、密度の濃い稽古であり、また、積み重ねていく稽古であると考える。積み重ねていく稽古とは、やるべき事を一つ一つ見つけ、それを身につけていくことである。例えば、技の基本である陰陽で手をつかい、次に足をつかい、そして腹をつかう。次に十字である。手先の十字、足の十字、腰の十字である。これらが上手く出来なければ、合気道の技にならないわけだからMUSTということになる。
このやるべき事に集中してやる稽古が密度の濃い稽古となるわけである。よほど気を引き締めて集中しないと密度の濃い稽古にはならない。

それでは質の高い稽古をするためにはどうすればいいかということになる。それは合気の道にのることである。合気道とは何か、合気道の稽古の目的は何かをもう一度考えて、確信しなければならない。大先生は宇宙との一体化が稽古の目的であり、合気道は地上楽園建設のお手伝いをすることとも言われている。道に外れた外道に陥らないように稽古をすることである。

合気道とは何かや合気道の稽古の目的を見つけ、確信すると、稽古の未来だけではなく過去も見えてくる。魄の稽古の意味、例えば、力(魄力)の稽古の必要だった事などが納得できるのである。力が必要な事、あればあるほどいいことが分かってくる。魄の稽古から脱出した稽古になると、この力(魄)が土台になって、その上の魂で技をつかうようになるから、土台が弱ければ技にならないからである。また、土台がしっかりしてくると力(腕力)が不必要なことが分かってくるものである。
ここから二つの事が分かってくる。一つは、合気道に力が必要ないなどという真でないことに騙されるなということ、そして又合気道の技は、魄と魂等の表裏一体でなければならないということである。
合気道には多くのパラドックスがあるが、片面だけを信じて、他面を無視すれば、それまでの魄の稽古からの脱出は出来ないだろう。

魄の稽古からの脱出は容易ではないだろうが、脱出しなければならない。脱出しなければ真の合気道に進むことができないし、稽古の意味が半減してしまうと思う。