【第711回】 空の気を脱して真空の気に結ぶ

合気道の修業は技を練って精進していくが、合気道の技を身につけていくのは容易ではない。そして長く続ければ続けるほどその難しさが分かってくるものだ。初心者は合気道の技がよく分からないので、基本の形を覚えれば技がつかえたと思い、分かったつもりになり、合気道の難しさに気づかないものだ。

先ず合気道の技は、宇宙の営みを形にし、宇宙の法則に則っていなければならないということを認識しなければならないが、これが最初の関門である。例えば、陰陽十字などである。

次に合気道を創られ、技を残して下さった開祖は、技を生むためにはやるべき事をやらなければならないと教えておられるので、その教えに沿って技の錬磨をしなければならないということである。
例えば、「天の気によって天の呼吸と地の呼吸を合わせて技を生み出す」「陰陽と陰陽とを組んで・・・技を生み出してゆく」「「天の浮橋に立たねば武は生まれません。」等など沢山ある。
つまり、このやるべき事である法則によって稽古しないと、合気道の技は生まれないという事なのである。

さて、今回はこの技を生むためにはやるべき事の一つである「空の気を脱して真空の気に結ぶ」を研究したいと思う。
この点について開祖は次の様に言われている。
「まず、空の気は物であります。それがあるから五体は崩れず保っております。空の気は重い力を持っております。また本体は物の気で働きます。身の軽さ、はやわざは真空の気を持ってせねばなりません。空の気は引力を与える縄であります。自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます。」(合気神髄 P.67)

この文章は懇切丁寧に詳しく書かれていますが一寸難解である。そこでこれをもう少し簡単にまとめてみると、「空の気は引力を与える縄であります。自由はこの重い空の気を解脱せねばなりません。これを解脱して真空の気に結べば技が出ます。」となるだろう。
上記のものより字面の意味が分かり易いだろう。しかし、この字面の内なる真の意味は難しいだろう。

“空の気を脱して真空の気に結ぶ”は、長年に亘って抱いていた課題であったが、最近その意味するものが多少分かってきたようなので書いてみることにする。
まず、ここで難しいのは“空の気”と“真空の気”であろう。
これを大先生の教えと己の稽古から解釈してみる。
“空の気”を大先生はここの最初の文章では、「空の気は物であります。それがあるから五体は崩れず保っております。空の気は重い力を持っております。また本体は物の気で働きます。空の気は引力を与える縄であります。」と言われている。
これから先ず、空の気は物であるということである。精神的な物ではなく、物理的な物であるということである。これは見えないから、幽の幽ではなく、幽の体であると考える。そして人体には気(生命エネルギー)が満ちており、五体を崩れずに保っている。また空の気は重い力を持っているから、体を重くし地に落すこともできるわけである。更に、本体は物の気で働くとあるのは、己及び相手の本体(体幹と考える)は手足(物)に満ちた気によって働き、動くということだと考える。
そして更に、空の気は引力を与える縄であるは、空の気には引力があって、相手と結んでしまう引力があるということである。実際にこの引力の手で相手と磁石のようにくっついてしまうことも出来る。

次に、“真空の気”は「身の軽さ、はやわざは真空の気を持ってせねばなりません。」と言われている。また、大先生は別なところで、「真空の気は宇宙に充満しています。これは宇宙の万物を生み出す根源であります。」とも言われている。
“空の気”は物であり己自身の中にあるのでそれがどのような物であるか理解するのはそう難しくはないが、“真空の気”は身の回りに充満し、万物を生み出しているのだが、己の外の宇宙にあるので、それがどのような物であるか理解したり実感するのは難しいのだと思う。しかし“真空の気”は実感するほかないのではないかと考えている。

鳥たちが木に止まったり、地で遊んでいるのを見ていて不思議な事に気がつく。どんなに小さな鳥、大きな鳥でも重さがあるのに、飛びあがり、飛んでいくのである。これを上記の“空の気”と“真空の気”の法則に合わせて見ると“空の気”と“真空の気”が分かってくるようである。鳥たちは、“空の気”と“真空の気”を上手につかっているのである。
まず、鳥は飛びあがる直前に五体に満ちている気を体に集めて、地や枝に接している。空の気の凝縮である。そして空の気を出し真空の気を思いっ切り取り入れ飛び上がるように見える。恐らく息を吐いて空の気を出し、真空の気を吸って飛び上がっているわけだが、この際、枝や地との結びを断ち、宇宙の真空の気と結んでいることになる。

これに関連して思い当たることがある。中学、高校のクラブで走高跳をやっていたが、今思えば無意識の内に、“空の気”と“真空の気”でやろうとしていたようである。空の気を五体に満たして地を踏み込み、飛び上がる直前には腹に気を集めて体を十分地に接触するわけだが、これが空の気である。そして飛び上がる際には、息を入れて体に“真空の気”を満たし、地との引力を断ち、飛び上がっていく。この真空の気”は、大先生が言われるところの、「弓を気いっぱいに引っ張ると同じに真空の気をいっぱいに五体に吸い込む」というモノであろう。

入門して間もなくのある時、本部で教えておられた有川定輝先生に、これまで何をやってきたかと聞かれたので、陸上競技の走高跳ですとお答えすると、先生はそれを合気道に役立てるといいと言われたのである。私は、走高跳は重心を上に上げる動きなので、重心を下げなければならない武道には役立たないのではないでしょうかと言った。先生は分かっていないなという顔で苦笑いされていたのを思い出す。今になると全くその通りで恥ずかしいかぎりである。“空の気”と“真空の気”の法則を駆使すれば、走高跳にも役立つはずなのである。恐らく走り幅跳び、三段跳び、棒高跳びなどの飛び上がる競技は勿論の事、100mや200mなどの走り競技でも、“空の気”と“真空の気”を駆使すれば超人的な記録が出るのではないかと期待している。また、剣や杖もこの“空の気”と“真空の気”をつかえば、合気剣、合気杖になるはずである。
因みに、空の気は体を重く沈めることになるので、鳥や走り幅跳びのように空の気から真空の気に結ばずに、空の気から空の気に結べば、体は更に重く沈むことになる。これを極限まで取り入れているのが、開祖が最高の魄の世界であると言われた相撲であろう。
これから有川先生の御忠告を生かして“空の気”と“真空の気”の技を鍛錬していきたいと思っている。

“空の気”と“真空の気”が少し分かってきたところで、今度は技を生み出すために、この“空の気”と“真空の気”をどのようにすればいいのかということになるが、それは前の文でもう説明した。簡単に言えば、この重い空の気を解脱して真空の気に結べば技が出るということになるわけである。
鳥が飛びあがり、飛ぶよう、走高跳で思い切り踏み込んでバーを飛び越えるように“空の気”と“真空の気”をつかえばいいと考える。
四方投げでも、呼吸法でも、空の気を脱して真空の気に結んだ技でやれば相手は倒れてくれるようだ。