【第710回】 西田幾太郎の禅と合気道

合気道に入門した頃、合気道はどんなものなのかほとんど知らなかった。
今思い出すだけでも冷や汗ものであるが、例えば、合気道の技は凄いモノで、修業は大変だろうが、修業の暁には気合で敵を倒せるようになるのだろうとか、力をつかわなくともチョチョイガチョイと敵を投げたり、極めたりできるのだろうと思ったのである。勿論、これは稽古が進むにつれて、幻想であると分かった。
その後も周りから合気道とは何々であるとよく聞くこともあった。その一つに「合気道は動く禅である」ということである。ヨーロッパでもよく言われていたようだし、これで合気道に入門した人も多いはずである。
「合気道は動く禅である」それほど理解に苦しむことではなかったし、ある程度そうかもしれないと思いながら稽古をしてきた。禅のお坊さんが坐禅をするというのは、体をつかうことで、それは合気道では形稽古で技の錬磨をすることであり、禅は座って考え、合気道は技の錬磨で考えるからであろうと思ったのである。

最近、また一寸禅に興味を持ち、禅と合気道の関係について本やインターネットなどを見たので、その関係を少しまとめてみたいと思う。

先ず、合気道の稽古をしていて、これは禅と共通するなと思われることに度々遭遇していたことである。合気道の稽古をしていると、合気道はパラドックスの連続であると驚かされる。稽古の節々でそれまでやっていたこと、考えてきたことを否定し、それまでの真逆を行わなければならなくなるのである。その真逆に踏み切れずにそれまでと同じようにやれば上達がないのである。そのパラドックスについては度々書いてきた。例えば、力はつけなければならないが力はうかわない。技を掛けて相手を倒すのではないが相手は倒れなければならない。ぶつかって、ぶつからない。動かさないで動かす。相手が一人の時は多人数と、多人数の時は一人と思う等などである。
これは禅問答のようだろう。これからもこのパラドックスは続くものと思っている。

次に禅は坐禅を組んで本来の自分、真の自分を探し求めると言われる。私自身は禅の修行をしたわけでもないし、坐禅を真剣に体験したわけでないので、禅はよく分からない。本やテレビなどで知る程度である。
最近、NHKテレビで西田幾太郎「善の研究」が放映されたのを見、そしてそのNHKテキストを購入して読み、この機会に禅を合気道に関係づけて考えてみることにした。西田幾太郎の『善の研究』や禅の書物を読んだわけではない。只NHKテレビのテキスト、それもそのテキストを書いた批評家(若松英輔東京工業大学教授)の解釈に則ったものであることをお断りする。

まず、西田幾太郎は、「禅は人格の実現である」と言っている。
これは合気道でも同じであるだろう。合気道はこれを知育・徳育・体育・常識の涵養及び真善美の探究とも言っている。知・徳・体・常識を育て、至真、至善、至美の人格をつくり上げるのが合気道の目的ということにもなると考える。
そのため禅では坐禅を組み思惟するが、合気道は技を練ることによって宇宙との一体化を図っていき、稽古の中や道場の外で思惟していくことになる。
尚、前出しの若松英輔教授によると、思惟するとは、こころの奥にあるもの、世にいういのちの営みという。また、思惟と同じような言葉に、「思考」と「思索」があり、「思考」は、俗にいう「あたま」で行うもの、「思索」はこころの営みという。
合気道と結び付けて解釈すると、思考の合気道は、形を覚え、力に頼る物質的稽古であり、思索の合気道は、魄の力ではなく心や念をつかう稽古であり、思惟の稽古は、真の心であり宇宙の意志と力である魂の合気道であると考える。

『善の研究』にある西田幾太郎の禅の「善」は、若松英輔教授によると「社会生活における“個”と、他社と共にある“個”は両立し得ます。この二つの“個”が共に開花することが、西田のいう“善”なのです」、そして「彼にとって“善”という。とは、“大いなる自己の開花であり、それに基づいて”行為“することなのです」という。
合気道では、地上天国や宇宙楽園の建設、万有万物の生成化育を乱さず、支援するのが善ということになろう。

西田幾太郎の『善の研究』を、一寸目を通しただけなので正しいかどうかは分からないが、禅はこれまで修業し思索してきた合気道とは大いに共通点があるが、違いもあるように思える。
私の印象としては、「個から出発して個を超えていこうとする」とか、禅は人間主体、自己主体であるあるようだ。西田幾太郎は宇宙を感じようと坐禅を組んでいたようだが、その宇宙の営みを感じようとはしたようだが、自分に取り入れるようなことまではしなかったようだ。それに対して、合気道の植芝盛平翁は宇宙の営みを身につけ宇宙と一体化し、神と交流し、顕幽神界を行き来され、そして万有万物の生成化育を助け、地上天国、宇宙楽園建設に励んでおられたのである。開祖は合気道の目的は、「宇宙の大虚空の修理固成」であると言われている。

合気道の植芝盛平翁の伝記『合気道開祖 植芝盛平伝』(講談社)に、「ところが実際には、開祖は日ごろ、禅にさほど興味を示さなかった。真に深い禅学・禅道についてはもちろん謙虚にその価値を認めていた」(234頁)とある。また開祖は「私の武産の合気は宗教から出てきたのかというとそうではない。真の武産から宗教を照らし、未完の宗教を完成へと導く案内である」(合気神髄 P115)と言われているのである。
植芝盛平大先生が何故禅にそれほど興味を示されなかったのかのお気持ちがよく分かる。

また、同書に、鈴木大拙師が道場を訪れ開祖に会われているという。そして禅と合気道とは自然に結びつくものであると合気道の感想を述べられた。
因みに、鈴木大拙師の禅は、「禅とは自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す。言い換えれば、我々一人一人に本来備わっているすべての力を解き放つのだ、ということもできる」という。
やはり人格の実現ということになると思う。

禅と合気道は歴史が違うが、禅の世界には世界に大きな影響を与えたような著名人を数多く輩出している。近世以降でも、例えば、西田幾太郎、鈴木大拙、大森曹玄やアップルを創業したスティーブ・ジョブズや、著名なドキュメンタリー映画監督であるマイケル・ムーア、元巨人の川上哲治、京セラの稲盛和夫会長などは誰でも知っている。しかし合気道では、大先生がおられた頃は多くの産業界、政界、芸能界、スポーツ界等々多くの著名人が合気道に心酔したり、稽古をしておられたが、残念ながら、最近はその名を耳にしない。
個人の人格の実現を目指す禅の方々が世の中で活躍されているのに、神人同一化や宇宙との一体化を目指し宇宙天国・地上楽園建設の生成化育を目指す合気道にそのような人が出てこないのは残念である。大先生だけの合気道にしてしまわないようにしなければならない、というのが今回の結論である。

参考文献  NHKテキスト 2019.10月 「善の研究 西田幾太郎」
      『合気道開祖 植芝盛平伝』(講談社)