【第708回】 魂の学び

前回の続きである。
合気道は、魂の学びであるから、魄の稽古から脱出したいと模索している。
ああでもないこうでもない、こうなのかああなのかと研究している。お陰で少しはこれまでの魄の稽古から、ちょっとだけ魂の学びの稽古へ舵が切れてきたようだ。
有難いことに、いろいろなモノが導いてくれ、魂の学びの稽古を支援してくれている。能力や才能がある人なら、もっと迅速・早急に会得していると思うが、そうでないので遅々としている。だが、事実を受け入れ、己の力に見合った努力をするほかないと焦らずにやる事にしている。

お蔭様で支援者にはまだ見放されていないようで、先日、大いなる教えを大先生の合気神髄から受けた。
それは先ず、「合気道は、魂の学びである。魂魄阿吽の呼吸である。(合気神髄P.12)」である。今追求している「魂の学び」は「魂魄阿吽の呼吸である」という教えである。「魂の学び」をどのように身につけていけばいいかというと、魂魄阿吽の呼吸で身につけていけばいいというのである。魂魄と阿吽の呼吸で技と体をつかえということであると考える。

もう少し詳しく説明する。先ず、この「魂魄」に関して、
「合気はある意味で、剣を使うかわりに自分の息の誠をもって悪魔を払い消すのである。つまり魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。(合気神髄P.13)」と言われている。
「剣を使うかわりに自分の息の誠をもって悪魔を払い消す」とは、魄のかわりに息(阿吽の呼吸)で魄(悪魔)を消し去ってしまい、魂の世界にかえてしまうことである。
「魄の世界を魂の世界にふりかえる」とは「魄が下になり、魂が上、表になる」ことであり、魂の世界にふりかえることによって、魂の実を結ぶのである。

次に阿吽の呼吸である。
大先生は、「阿吽の呼吸の理念力で魂の技を生み出す道を歩まなくてはならない。(合気神髄P.12)」と言われている。
阿吽の呼吸の理念力で魂の技を生み出さなければならないと言われているのである。つまり、阿吽の呼吸は理念力を有しており、そしてまた、魂の技を生み出すということである。
まず、阿吽の呼吸は理念力を有すのだから、阿吽の呼吸には理と念が無ければならない事になる。理とは法則(宇宙の法則)と念とは心、真の心=魂であろう。

合気道は、魂の学びであるとは、魄が下になり、魂が上、表になる魂魄と理念力の阿吽の呼吸で技を生み出す修業をすれば、魂の技の実が得られるということではないかと考える。