【第707回】 道楽と言ってみたい

「第663回 道楽になってきた」に、有川先生の道楽観を紹介し、私自身も合気道を道楽にしたいと書いた。
有川先生が亡くなられて早や16年になるが、年を経るほど先生の偉大さ素晴らしさが分かってくる。今は、先生のお側にいたり、稽古をしていた頃より、先生から教わることは多いし、ますますいろいろと教えて頂いている。先生の技、一挙手一投足、先生のお話等‥の教えは過ってはよく分からなかったし、(失礼ながら)あまり興味が無かったが、お亡くなりになってからやっと先生の素晴らしさと有難さに気がついたわけである。

有川先生のお話をまとめた書き物やインタービュー記事を、最近改めて読むたびに、先生のお話の的を射た、奥深く、またお話や文章の無駄のなさに感動させられる。
その一例として、最近、読み返した「月刊 合気マガジン 1989.4 No.46」の次の一文がある。
記者の、「最後に、(有川)先生にとって合気道とは何でしょうか」に、
先生は「道楽だね。道を究めること。究める中に、人生の創造が出てくる。」と答えられたのである。

「第663回 道楽になってきた」を書いた一年前も、先生にとっての合気道は道楽であると一言で言われたことに感動したが、今はこの先生が言われた「道楽」にはもっと深い意味あることが分かって関心させられたのである。
前回は、「道楽だね。」の後の「道を究めること。究める中に、人生の創造が出てくる。」には興味がなかったが、それは先生の道楽を十分理解していなかったということになる。つまり、道楽とは、道を究めることであり、そして禅の西田幾太郎が云う「禅とは人格を実現するものである」の人格の実現であるという深い意味があったと分かったのである。

私も、合気道は私の道楽であるといいたいが、まだまだ言う資格はないと思う。冷静に考えてみると、有川先生の「合気道は道楽である。」はなるほどと素直に受け入れる事ができるし、そして素晴らしいと誰でも思えるが、私が言っても似合わない。私の場合は「道楽」というより「趣味」の方が相応しい。合気道は私の道楽ですよりも趣味ですの方がまだ似合っているようだ。
「道楽」は道を究めていくことであり、究めていくことによって人格が創造されるわけだから、生きるすべてであり、関係するすべてが道楽と結びついていなければならないことになる。
それに対して「趣味」は、生活の一部であり、価値基準は合気道の他にもある。また、合気道以外からも楽を得ようとし、それを人格創造に当てているということになるだろう。

合気道を「趣味」から「道楽」にするためには、まずは、合気道に集中し、そして合気道の技の向上に励まなければならないだろう。合気道の技が上手くなければならないはずである。上手いという事は、技と体が宇宙法則に則ったことになり、宇宙との一体化の可能性が出てくる。宇宙を知ることになり、引いては己を知る事になる。人格の創造となるのである。

次に、価値基準がすべて合気道になることである。己の合気道の精進と合気道に益になるか、どれだけ役に立つのかの判断基準が合気道になるのである。若い頃は、お金とか、車、家、高価なモノ、名声などを得ようとしたり、損得を判断したりして生きてきた。合気道が道楽になれば、このようなモノ(魄)は関係なく、また関心も無くなるはずである。大先生にしても有川先生にしてもそうだったと確信している。

なんとか「趣味」の段階から「道楽」の段階に移行したいと思っている。
早く、「合気道は私の道楽です」と言いたいものである。