【第706回】 今日は何を教えてもらえるのか

最近は朝の目覚めが楽しい。若い頃で会社勤めをしていたとき、また学校に通っていた時は、朝起きるのが辛かったし嫌だった。いつも「ああ、もう朝になったか」と朝を恨んだものだ。今考えると、朝起きてもその日は大体、嫌なことややらなければならない事があったからのようである。偶に朝楽しく起きたのは、運動会や遠足のある日ぐらいだったろう。

毎朝の目覚めが楽しいのは、もう嫌な事や他の為にやらなければならない事がほとんど無くなったこともあるが、その他に今日はどんな楽しい発見があるか、何を教えて貰えるのか等の期待をするからだと思う。毎日、いろいろな感動や驚きがあるのだが、それはほとんど事前には予測していなかった事なのである。だから、今日は何を教えて貰えるのかと朝の目覚めがわくわくどきどき、楽しいのである。

毎日、何かを教えてもらうわけだが、その何かを教えてくれるモノがあることになる。一つは自分自身であり、もう一つは何か大きな力を持つ方であると考える。もしかしたら、この自分自身も何か大きな力を持つ方と同じなのかもしれない。自分自身の中にその大きな力を持つ方がいらっしゃるのかもしれない。自分自身の中か外かに関係なく、これを日本画家の東山魁夷画伯は「私自身の意志よりも、もっと大きな他力」と言われているのである。

自分自身も何か大きな力を持つ方から何かを教えてもらうためには、自分自身との契約、また、何か大きな力を持つ方との契約が必要なようである。
自分がやるべき事を決めて、自分自身と契約するのである。それを何か大きな力を持つ方とも契約するのである。
その契約を果たしていくことによって、支援を受け、何かを教えて貰うことになり、それが双方の契約になるわけである。

植芝盛平合気道開祖と
五井晶久白光真宏会開祖
東山魁夷画伯は日本画を描くこと、そして大きな力を持つ他力は、画拍に必要な教えを授けるという契約である。勿論、合気道の開祖の神様との契約はよく知られている。更にもう一人、大先生の友人でもあった、白光真宏会の五井晶久開祖(写真)も神との契約をしたと次のように語っておられる。「『神様、どうぞ私のいのちを神様のおしごとにおつかいください』と、いつもの祈りを強くくりかえしながら歩いた。そのまま向岸へ渡る船着場まで来て、土手を下りようとした瞬間、『お前のいのちは神が貰った、覚悟はよいか』と電撃のような声がひびき渡った。その声は頭の中での声でも、心の中の声でもなく、全く天からきた。意味をもったひびき、即ち天声であったのだ。(中略)私はそのひびきに一瞬の間隔もなく『はい』と心で応えた」(武産合気P.11)。

私の場合は、まず己の使命を果たすことであるが、その為に、毎朝、禊をするという契約をしている。毎朝、同じプログラムを繰り返しやっているが、ことある毎に有難い教えを受けている。一生懸命にやればやるほど、真剣になればなるほど、いい教えが与えられるようだ。気を抜いてやったり、適当にやれば、教えはない。まるでこちらの事を見通しているようだ。才能と努力に応じて教えが変わっているように思える。

例えば今朝の禊ぎで、稽古の間に窓の外の木の先端の枝に小鳥がとまるのを見た。その鳥の体重を考えれば、先端の細い枝はその重さに耐えられないはずであるが、折れもしなければ、しなりもしないのである。すると「これはどうしてか分かるか?」と何かが問うてくる。が、答えは言ってくれなかった。かっての有川定輝先生のようである。問うてはくるが答えは言わないのである。自分で考えるほかない。そして禊ぎをしながら考え、禊を終わってからも考え、本で勉強してこの答えを考え続けることになる。正しい答えが出るか出ないか、いつ出るのかは分からない。出ないかも知れない。しかし、これが何か大きな力を持つ方からの教えであると思える。答えは、何か大きな力を持つ方が教えてくれるかもしれないし、自分自身の中の何かが見つけてくれるかもしれない。それも楽しみである。

契約をしていると、身の回りの見るモノ、聞くモノからいろいろ教えてもらったり、楽しませてもらえるものである。この契約は、人も万有万物とは争わない、競合せず、万有万物は地上天国建設を果たしていく同朋、家族であるとすることである。先ずは、人も万有万物もそのようにこの目で見るようにし、そしてこの合気道の根本思想を広め、地球平和に?げていければいいのだろうと考えている。
契約者の他方の何か大きな力を持つ方は、必ずそのために何かを教えてくれ、支援してくれるはずだと信じている。
今日もいろいろな教えを頂いたようだ。明日の朝の目覚めも楽しみである。